烽ノ甘んじている間は、彼らにとって現代日本語はまことに必要にして十分かも知れぬ。だが僕のひそかに惧《おそ》れるのは、もし日本の小説道がさらに進展して、例えば高度の観念的要素とでもいったものの表現を迫られた時、この日本語は果してその芸術的容器として堪えるであろうか、ということなのである。
実例を引こう。幸か不幸か日本の飜訳家は創作家とちがって、より高次な文学と取っ組むという身の程しらずな任務を背負わされている。従って高度の観念的要素の日本語化を強いられる機会が、創作家の夢想もしえぬほどに多いのである。そこで、この例もその飜訳畠から引くのであるが、遺憾ながら僕の畠からではない。ロシヤ語はこの比較対照していただくのに、甚だ通りが悪いからである。やむを得ず非礼を冒して、偶※[#二の字点、1−2−22]《たまたま》坐右にあるというだけの理由で、某氏の手に成るすぐれた飜訳をその原文と対照することにする。そういう次第で原作の名も訳者の名も一さい伏せることにするが、それとは無関係に、現代日本語の可能性の限界ということだけに注意して頂きたいのである。
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