sせいちゅう》によってその肝腎の詩の発達が阻害されている現状では、よろしく創作家が責を負うべき仕事である筈《はず》だ。だが彼らの誰が真面目《まじめ》に国語の将来を憂えているであろうか。たとえば谷崎潤一郎氏が、氏のぬきさしならぬ文章精神を『文章読本』として世に問うたとき、現役文壇人の誰が真面目に氏の説を玩味《がんみ》したであろうか。僕の記憶にして誤りがなければ、氏の説を吟味しその真摯《しんし》さに静かに敬礼した人は、意外にも小林秀雄氏一人あるのみであった。これは一例に過ぎないが、文章ないし国語の問題に対する創作家の冷やかな表情は、この一事を以《もっ》てしても永く記憶されていいと思う。
そこで、単にぶざまさと言っただけでは話が通じないし、かと言って一々その実例を挙げていたのでは際限がないしするので、なかんずく最も愛想の尽きるものとして、抽象表現に芸術的に堪《た》えぬこと、及び音律の貧しさ、この二つを挙げてみる。要するに言語としての包摂力が乏しいということである。もちろん創作家が身辺雑記に沈湎《ちんめん》し、或いは概念を伝達すればこと足る底のイズム小説に終始し、或いは張三李四を相手の世相小
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