まず用意する心構えは、自己を棄てるということの他の何物でもあるまい。飜訳者は原物の意味や思想に没入しようとする一方、同時にまた原作者自身の創作を周囲から支えていた情感や気分にまでも自己を転化させようという、まことに不思議な欲望に誘われるものである。それは極端にいうと、観念として抽象し得るもののみにとどまらず、原作者の体温とでもいった肉体的な要素にまでも迫ろうとする欲望である。
 もし完全な飜訳者というものがあるとすれば、そのようにして幻想された体感が、一々原作者のそれに合致するという、真にあり得べからざる玄妙の境に達し得る人でなければなるまいが、勿論《もちろん》そんなことがあっては堪《た》まらない。それは全く同じ指紋の人が二人いるみたいなものである。しかも大切なことは、この自己転化という危険な誘惑に憑《つ》かれない限り、飜訳という形象再生の仕事が到底成り立たないばかりか、飜訳者という生ける人間が第一成りたち得ないという事実なのである。
 合理主義的な行き方が、飜訳者から自己の情緒本位の創意を剥奪《はくだつ》せよ、と主張するのはいかにも正しい。ただ僕としてはそれが行き過ぎて、序《つい》で
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