とか、感情や思想とその表現とか、元来一である筈《はず》のものを別々に考える悪習を生ずる」と言うのであった。

 これは飜訳という不自然な労働が、人間の思考におよぼす害毒を、ずばりと言い当てたことばで、多少とも良心的に飜訳の道に志すほどの人にとって、有益な警戒信号たるを失わない。だが差当っての問題は、この言葉の描き出しているもう一面の苦《に》がい真理である。その面は、かりに知性の西欧化が実現されようとも、必ずしもそれで飜訳の道は、のんきに葉巻でもふかして行けるほど坦々《たんたん》たる道にはなるまいという真理を、悲しいかな物語っているのである。そこにはまだまだ同義・等量・等値などという有機的な諸関係のあいだに夥《おびただ》しい未解決の問題が残されるであろうこと、したがって単なる合理主義的な行き方だけで勝利の日を期待しても、おそらくその日は必ずしも近くはあるまいということを暗示している。
 それは主として飜訳の生理の問題なのだが、この生理に加えてもう一つ厄介な重荷は、飜訳の心理ともいうべきものであろう。それは言ってみれば次のような性質のものだ。――およそ多少とも良心的な飜訳者が、仕事に当って
前へ 次へ
全7ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
神西 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング