ような人は、文学なんかお廃《や》めなさいと申しあげるのほかはないのである。
それはそうとして、飜訳の生理というと、まず論理を生かす道としての表現のことが考えられる。この表現上の差別という厄介千万なものをなくすためには、知性の改造という非常に遥《はるか》なイメージを描かなければならない。野上氏もこの点には触れておられるし、それが晩《おそ》かれ早かれ克服されなければならない懸案であることには僕も至極同感なのだが、仮に何時《いつ》の日かこの遠いイメージが実現されたにしても、案外ごく限られた可能性をしか齎《もたら》しては呉《く》れそうもない――という気が強くするのである。
昨年秋のジイドの日記のなかに次のような一節があった。それは、「思いつくままに書き下す」というスタンダールの秘訣を讃《たた》え、それとはおよそ対蹠的な例として、飜訳という仕事を挙げたものであった。他人の思想を扱うのだから、その思想を暖めたり、包装したりすること、従って言葉の選択や表現が問題になって来ると言い、その結果、「何を言うにも言いかたが幾とおりもあり、そのうち正しい言い方は唯一つであると信じるようになる。で内容と形式
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