とする大そう粋《いき》な駄じゃれだからである。まあ一種の語呂合せみたいなものであり、それを一概に「飜訳者は裏切り者」と心得て畏《おそ》れ謹《つつ》しんだのでは、この名句の発案者の折角の笑いが消し飛んでしまう。含蓄されている洒脱味が失せてしまう。いささか苦しいが、飜訳者《ホンヤクシャ》は叛逆者《ハンギャクシャ》とでも言い換えれば、少しは洒落のひびきが通じようというものである。ただしそうすると、下の句が耳遠くなって、意味の通りが悪くなる。飜訳という仕事は畢竟《ひっきょう》するに、こっちを立てれば向こうが立たぬ千番に一番の兼合いと心得れば、まず間違いはなさそうだ。
 チェーホフも同じような毒舌を「手帳」のなかで書いている。それは「ペレヴォッチクはポドリャッチクの誤植」というので、こう仮名で書いてみても、頭韻と脚韻の関係ははっきり分るだろう。意味は「訳者とあるは請負師の誤植」だが、なるほどそれで一応の意味は通じても、肝腎の洒落の方はさっぱりぴんと来ないことになる。これなど極端な例のようだが、この種の困難は単に詩歌の飜訳の場合ばかりでなく、およそ飜訳という仕事があり続けるかぎり、ぜひとも背負わな
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