ければならぬ不幸な宿命である。
文芸作品は、せんじつめれば人間精神の自由な play(遊び、つまり躍動)だ。そこで縄跳びの縄の役目をつとめるのが、つまり言葉なのだが、飜訳という仕事にとって、およそこの言葉という縄をとび越えるほど厄介なことはない。そこでやむを得ず、色んな便法が講じられることになる。その一例が、単色版式飜訳という方法だ。
それを一口にいうと、飜訳者は模写だとか原色版だとか何だとかいう身の程知らずな野心を起《おこ》さずに、写真屋の役割で満足しろということになる。つまり色だの音だのには目をつぶり耳をふさいで、意味だけを忠実に伝えろというわけである。もっとも今日《こんにち》では既にカラー・フィルムも出現しているから話は別だが、そもそも先行条件として、絞りとか照明とかフィルターの選択とか露出の時間とか現像の技術とか、さまざまな人為的操作がいることは誰だって知っている。ただレンズの確かさとかピントの正しさだけを頼みにしていたのでは、報道写真一枚まんぞくに撮れはしない。そんな事情を一切無視して、さも自分が精巧なレンズにでもなったつもりでアグラをかいているのが、世上の単色版式飜訳家
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