た怨《うら》みがある、親の仇《かたき》などと旧弊な言掛《いいがか》りも附けようと思へば附けられよう。だがこの男も結局は俺の心を掻《か》き立てては呉《く》れぬ。小さいのだ、下らぬのだ。あれほどの野心家なら、どこの城どこの寺の隅にも一人や二人は巣喰つてをる。それでは蔭凉軒はどうだ。世間ではあの老人が義政公を風流|讌楽《えんらく》に唆《そその》かし、その隙《すき》にまぎれて甘い毒汁を公の耳へ注ぎ込んだ張本人のやうに言ふ。赤入道(山名|宗全《そうぜん》)なんぞは、とり分けて蔭凉の生涯失はるべしなどと、わざわざ公方《くぼう》に念を押しをる。それほどに憎らしいか、それほどに怖ろしいか。俺はあの老人とこれで丸六年のあひだ一緒に暮して来たが、唯《ただ》の詩の好きな小心翼々たる坊主だ。もそつと詩の上手なあの手合は五山の間にごろごろしてをる。あれを奸悪《かんあく》だなど言ふのは、奸悪の牙《きば》を磨く機縁に恵まれぬ輩《やから》の所詮《しょせん》は繰り言にしか過ぎん。ではそんな詰らん老人をなぜ背負つて火の中を逃げた。孟子《もうし》は何とやらの情《じょう》と言つたではないか。俺の知つた事ではない。……
「とするとこの両名の言ふなりになつた公方が悪いといふことになる。成程あまり感服のできる将軍ではない。畏《かしこ》くも主上《しゅじょう》は満城紅緑為誰肥と諷諫《ふうかん》せられた。それも三日坊主で聞き流した。横川景三《おうせんけいさん》[#ルビの「おうせんけいさん」は底本では「おうせいけいさん」]殿の弟子|分《ぶん》の細川殿も早く享徳《きょうとく》の頃から『君慎』とかいふ書を公方に上《たてまつ》つて、『君行跡|悪《あ》しければ民|順《したが》はず』などと口を酸くした。それもどこ吹く風と聞き流した。俺は相国寺の焼ける時ちよつと驚いたのだが、あの乱戦と猛火《みょうか》が塀一つ向ふで熾《おこ》つてゐる中を、折角《せっかく》はじめた酒宴を邪魔するなと云つて遂《つい》に杯を離さず坐《すわ》り通したさうだ。あれは生易《なまやさ》しいことで救へる男ではない。政治なんぞで成仏《じょうぶつ》できる男ではない。まだまだ命のある限り馬鹿《ばか》の限りを尽すだらうが、ひよつとするとこの世で一番長もちのするものが、あの男の乱行|沙汰《ざた》の中から生れ出るかも知れん。……
「そこで近頃はやりの下尅上《げこくじょう》はどうだ。これこそ腐れた政治を清める大妙薬だ。俺もしんからさう思ふ。自由だ、元気だ、溌剌《はつらつ》としてをる。障子《しょうじ》を明け放して風を入れるやうな爽《さわや》かさだ。俺は近ごろ足軽《あしがる》といふものの髯《ひげ》づらを眺めてゐて恍惚《こうこつ》とすることがある。あの無智な力の美しさはどうだ。宗湛《そうたん》もよい蛇足《じゃそく》もよい。だが足軽の顔を御所の襖絵《ふすまえ》に描く絵師の一人や二人は出てもよからう。まあこれはよい方の面だ。けれど悪い面もある。人心の荒廃がある。世道の乱壊がある。第一、力は果して無智を必須の条件とするか、それが大いに疑問だ。一時は俺も髪の毛をのばして、箒《ほうき》を槍《やり》に持ち替へようかと本気で考へてみたが、それを思つてやめてしまつた。……
「ではその荒廃乱壊を救ふものは何か。差当《さしあた》つては坊主だ。俺は東福で育つて管領に成り損ねて相国に逆戻りした男だ。五山の仏法はよい加減|厭《あ》きの来るほど眺めて来た。そこで俺の見たものは何か。驚くべき頽廃《たいはい》堕落だ。でなければ見事きはまる賢哲保身だ。それを粉飾せんが為の高踏廻避と、それを糊塗《こと》せんが為の詩禅一致だ。済世《さいせい》の気魄《きはく》など薬にしたくもない。俺は夢厳和尚の痛罵《つうば》を思ひだす。『五山ノ称ハ古《いにしえ》ニ無クシテ今ニアリ。今ニアルハ何ゾ、寺ヲ貴《とうと》ンデ人ヲ貴バザルナリ。古ニ無キハ何ゾ、人ヲ貴ンデ寺ヲ貴バザルナリ。』またかうも言はれた。『法隆|将《まさ》ニ季ナラントシ、妄庸ノ徒声利ニ垂涎《すいぜん》シ、粉焉沓然、風ヲ成シ俗ヲ成ス。』人は惜しむらくは罵詈《ばり》にすぎぬといふ。しかし克《よ》く罵言をなす者すら五山八千の衆徒の中に一人もないではないか。いや一人はゐる。宗純《そうじゅん》和尚(一休)がそれだ。あの人の風狂には、何か胸にわだかまつてゐるものが迸出《ほうしゅつ》を求めて身悶《みもだ》えしてゐるといつた趣《おもむき》がある。気の毒な老人だ。だがその一面、狂詩にしろ奇行にしろ、どうもその陰に韜晦《とうかい》する傾きのあるのは見逃せない。俺にはとてもついて行けない。……
「そこで山外の仏法はどうか。これは俺の知らぬ世界だから余り当てにはならぬが、どうやら人物がゐるらしい。『祖師の言句をなみし経教《きょうぎょう》をなみする破木杓、脱底|桶《つう》のともがら』を言葉するどく破せられた道元和尚の法燈《ほうとう》は、今なほ永平寺に消えずにゐるといふ。それも俺は見たい。応永のころ一条|戻橋《もどりばし》に立つて迅烈《じんれつ》な折伏《しゃくぶく》を事とせられたあの日親といふ御僧――、義教《よしのり》公の怒《いかり》にふれて、舌を切られ火鍋《ひなべ》を冠《かぶ》らされながら遂《つい》に称名《しょうみょう》念仏を口にせなんだあの無双の悪比丘《あくびく》は、今どこにどうしてをられる。それも知りたい。叡山《えいざん》の徒に虐《しいた》げられて田舎《いなか》廻りをしてゐる一向の蓮如《れんにょ》、あの人の消息も知りたい。新しい世の救ひは案外その辺から来るのかも知れん。だがこれも今のところ俺には少しばかり遠い世界だ。……
「方々見廻しては見たが、まあ現在の俺には、諦《あきら》めて元の古巣へ帰るほかに途《みち》はなささうだ。それそれそなたの主人、一条のおやぢ様の書かれた本にもあるではないか。『理ハ寂然《じゃくねん》不動、即《すなわ》チ心ノ体《たい》、気ハ感ジテ遂《つい》ニ通ズ、即チ心ノ用』……あの世界だ。あのおやぢ様は道理にも明るく経綸《けいりん》もあるよい人だ。只《ただ》惜しいかな名利が棄《す》てられぬ。信頼《のぶより》や信西《しんぜい》ほどの実行の力も気概もない。そして関白争ひなどと云ふをかしな真似《まね》をしでかしては風流学問に身をかはす。惜しい人物だ。それにつけても兄《あに》様の一慶和尚は立派なお人であつたぞ。いまだに覚えてゐる、『儒教デモ善ト云フモ悪ニ対スルホドニ善ト悪トナイゾ、中庸ノ性ト云フタゾ』などと、幼な心に何の事とも分らず聞いてをつたあの咄々《とつとつ》とした御音声《ごおんじょう》が、いまだに耳の中で聞えてゐる。そもそも俺のやうな下品下生《げぼんげしょう》の男が、実理を覚《さと》る手数を厭《いと》うて空理を会《え》さうなどともがき廻るから間違ひが起る。さうだ、帰るのだ、やつと分つたよ。虎関、夢窓、中巌、義堂、そして一慶さま……あの懐しい師匠たちの棲《す》まふ伝統へ、宋《そう》の学問へ、俺は帰るのだ。」
 そこでやうやく言葉を切られますと、そのまま石からお腰を上げて、こちらは見向きもなさらず丘を下りて行かれます。わたくしは呆《あき》れて追ひすがり、「ではこの先どこへおいで遊ばす」と伺ひますと、「明日にも近江へ往く、あの瑞仙和尚がをられるのだ。何か言伝《ことづ》てでもあるかな」とのお答へ。「姫君へお返りごとは」と重ねて伺ひますと、「いま喋《しゃべ》つたことが返事だ。覚えてゐるだけお伝へするがいい。」さうお言ひ棄《す》てになるなり、風のやうに丘を下りて行かれたのでございます。
 近江へ往くとは仰《おっ》しやいましたが、わたくしには実《まこと》とは思はれませんでした。なぜかしらそんな気が致したのでございます。ひよつとしたらあのまま東の陣にでもお入りになつて、斬《き》り死になさるお積りではあるまいかとも疑つてみました。これもそのやうな気がふと致しただけでございます。いづれに致せ、その日以来と申すもの、松王様の御消息は皆目《かいもく》わからずなつてしまひました。地獄谷の庵室《あんしつ》と仰しやつたのを心当てに尋ねてみましたが、これはどうやら例のお人の悪い御|嘲弄《ちょうろう》であつたらしく、真蘂西堂《しんずいせいどう》は前の年の九月に伊勢殿と御一緒にあさましい姿で都落ちをされたなりであつたのでございます。ちよつと潜《ひそ》かに上洛《じょうらく》されたやうな噂《うわさ》もありましたので、それを種に人をお担ぎになつたのでございませう。鶴姫様の御|悲歎《ひたん》は申すまでもございません。南禅相国両大寺の炎上ののちは、数千人の五山の僧衆、長老以下東堂西堂あるひは老若《ろうにゃく》の沙弥喝食《しゃみかっしき》の末々まで、多くは坂下《さかもと》、山上《やまのうえ》の有縁《うえん》を辿《たど》つて難を避けてをられる模様でございましたので、その御在所御在所も随分と探ねてまはりました。瑞仙様が景三、周鱗《しゅうりん》の両和尚と御一緒に往つてをられます近江の永源寺、あるひは集九様のをられる近江の草野、または近いところでは北岩倉の周鳳《しゅうほう》様のお宿、それに念のため薪《たきぎ》の酬恩|庵《あん》にお籠《こも》りの一休様のところまでも探ねてみましたが、お行方は遂《つい》に分らず、その年も暮れ、やがて応仁二年の春も過ぎてしまひました。
 そのうち毘沙門《びしゃもん》の谷には、お移りになりまして二度目の青葉が濃くなつて参ります。明けても暮れても谷の中は喧《かしま》しい蝉時雨《せみしぐれ》ばかり。その頃になりますと、この半年ほど櫓《やぐら》を築いたり塹《ほり》を掘つたりして睨《にら》み合ひの態《てい》でをりました東西両陣は、京のぐるりでそろそろ動き出す気配を見せはじめます。七月の初《はじめ》には山名方が吉田に攻め寄せ、月ずゑには細川方は山科《やましな》に陣をとります。八月になりますと漸《ようや》く藤ノ森や深草《ふかくさ》のあたりに戦《いくさ》の気配が熟してまゐり、さてこそ愈※[#二の字点、1−2−22]《いよいよ》東山にも嵯峨《さが》にも火のかかる時がめぐつて来たと、わたくしどもも私《ひそ》かに心の用意を致してをりますうち、その十三日のまだ宵の口でございました。遽《にわ》かに裏山のあたりで只《ただ》ならず喚《わめ》き罵《ののし》る声が起つたかと思ふうち、忽《たちま》ち庫裡《くり》のあたりから火があがりました。かねて覚悟の前でもあり、幸ひ御方様も姫君も山門のほとりの寿光院にお宿をとつておいででしたから、東福寺の方角にはまだ何事もないらしい様子を見澄まし、折からの闇にまぎれて、すばやく偃月橋《えんげつきょう》よりお二方ともお落し申上げました。
 残りました手の者たちとわたくしは、百余合のお文櫃《ふみびつ》の納めてあります北の山ぎはの経蔵のほとりに佇《たたず》んで、成行きをじつと窺《うかが》つてをります。当夜は風もなく、更にはまた谷間のことでもあり、火の廻りはもどかしい程に遅く感ぜられます。そのうちに食堂《じきどう》、つづいて講堂も焼け落ちたらしく、火の手が次第に仏殿に迫つて参ります頃には、そこらにちらほら雑兵《ぞうひょう》どもの姿も赤黒く照らし出されて参ります。どうやら西方の大内《おおうち》勢らしく、聞き馴《な》れぬ言葉|訛《なま》りが耳につきます。そのやうな細かしい事にまで気がつくやうになりましたのも、度重なる兵火をくぐつて参りました功徳《くどく》でもございませうか。やがて仏殿にも廻廊づたひにたうとう燃え移ります。それとともに、大して広からぬ境内《けいだい》のことゆゑ、鐘楼《しゅろう》も浴室も、南|麓《ろく》の寿光院も、一ときに明るく照らし出されます。こちら側の経蔵もやはり同じことであつたのでございませう、松明《たいまつ》を振りかざした四五人の雑兵《ぞうひょう》が一散に馳《は》せ寄つて参りました。その出会ひがしらに、思ひもかけぬ経蔵の裏の闇から、僧形《そうぎょう》の人の姿が現はれて、妙に鷹揚《おうよう》な太刀《たち》づかひで先登の者を斬《き》つて棄《す》てました。
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