雪の宿り
神西清
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)文明《ぶんめい》元年
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)連歌師|風情《ふぜい》には
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(例)※[#「日+斤」、第3水準1−85−14]
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文明《ぶんめい》元年の二月なかばである。朝がたからちらつきだした粉雪は、いつの間にか水気の多い牡丹《ぼたん》雪に変つて、午《ひる》をまはる頃には奈良の町を、ふかぶかとうづめつくした。興福寺の七堂伽藍《しちどうがらん》も、東大寺の仏殿楼塔も、早くからものの音をひそめて、しんしんと眠り入つてゐるやうである。人気《ひとけ》はない。さういへば鐘の音さへも、今朝からずつととだえてゐるやうな気がする。この中を、仮に南都の衆徒三千が物の具に身をかためて、町なかを奈良坂へ押し出したとしても、その足音に気のつく者はおそらくあるまい。
申《さる》の刻になつても一向に衰へを見せぬ雪は、まんべんなく緩やかな渦を描いてあとからあとから舞ひ下りるが、中ぞらには西風が吹いてゐるらしい。塔といふ塔の綿帽子が、言ひ合はせたやうに西へかしいでゐるのでそれが分る。西向きの飛簷垂木《ひえんたるき》は、まるで伎楽《ぎがく》の面のやうなおどけた丸い鼻さきを、ぶらりと宙に垂れてゐる。
うつかり転害《てがい》門を見過ごしさうになつて、連歌師《れんがし》貞阿《ていあ》ははたと足をとめた。別にほかのことを考へてゐたのでもない。ただ、たそがれかけた空までも一面の雪に罩《こ》められてゐるので、ちよつとこの門の見わけがつかなかつたのである。入込《いりこ》んだ妻飾《つまかざ》りのあたりが黒々と残つてゐるだけである。少しでも早い道をと歌姫越えをして、思はぬ深い雪に却《かえ》つて手間どつた貞阿は、単調な長い佐保路《さほじ》をいそぎながら、この門をくぐらうか、くぐらずに右へ折れようかと、道々決し兼ねてゐたのである。
ここまで来れば興福寺の宿坊はつい鼻の先だが、応仁の乱れに近ごろの山内《さんない》は、まるで京を縮めて移して来たやうな有様で、連歌師|風情《ふぜい》にはゆるゆる腰をのばす片隅もない。いや矢張り、このまま真すぐ東大寺へはいつて、連歌友達の玄|浴主《よくす》のところで一夜の宿を頼まうと、この門の形を雪のなかに見わけた途端に貞阿は心をきめた。
玄浴主は深井《じんじ》坊といふ塔頭《たっちゅう》に住んでゐる。いはゆる堂衆の一人である。堂衆といへば南都では学匠のことだが、それを浴主などといふのは可笑《おか》しい。浴主は特に禅刹《ぜんさつ》で入浴のことを掌《つかさど》る役目だからである。しかし由玄はこの通り名で、大|華厳寺八宗兼学《けごんじはっしゅうけんがく》の学侶のあひだに親しまれてゐる。それほどにこの人は風呂好きである。したがつて寝酒も嫌ひな方ではない。貞阿のひそかに期するところも、実はこの二つにあつたのである。
その夜、客あしらひのよい由玄の介抱で、久方ぶりの風呂にも漬《つか》り、固粥《かたかゆ》の振舞ひにまで預つたところで、実は貞阿として目算《もくさん》に入れてなかつた事が持上つた。雪はまだ止《や》む様子もない。風さへ加はつて、庫裡《くり》の杉戸の隙間《すきま》から時折り雪を舞ひ入らせる。そのたびに灯の穂が低くなびく。板敷の間の囲炉裏《いろり》をかこんで、問はず語りの雑談が暫《しばら》く続いた。
貞阿は主人の使で、このあひだ兵庫の福原へ行つて来た。主人といふのは関白一条|兼良《かねら》で、去年の十一月に本領|安堵《あんど》がてら落してやつた孫|房家《ふさいえ》の安否を尋ねに、貞阿を使に出したのである。兵庫のあたりはまだ安穏な時分なので、須磨の浦もその足で一見して来た。貞阿はそこの話をした。それから話は自然、いま家族を挙げて興福寺の成就院に難を避けて来てゐる関白のことに移つて、太閤《たいこう》もめつきり老《ふ》けられましたな、などと玄浴主が言ふ。とつて六十八にもなる兼良のことを、今さら老けたとは妙な言艸《いいぐさ》だが、事実この矍鑠《かくしゃく》たる老人は、近年めだつて年をとつた。それは五年ほど前に腹ちがひの兄、東福寺の雲章一慶が入寂し、引続いて同じ年に、やはり腹ちがひの弟の東岳|徴※[#「日+斤」、第3水準1−85−14]《ちょうきん》[#ルビの「ちょうきん」は底本では「ちょうき」]が遷化《せんげ》して以来のことである。肉親の兄弟でもあり、学問の上の知己でもあつたこの二人の禅僧を喪《うしな》つて、兼良生来の勝気な性分もめつきり折れて来た。あの勧修念仏記《かんじゅねんぶつき》を著したのはその年の秋のことである。そこへ今度の大乱である。貞阿はそんな話をして、序《つい》でに一慶和尚の自若たる大往生《だいおうじょう》ぶりを披露した。示寂の前夜、侍僧に紙を求めて、筆を持ち添へさせながら、「即心即仏、非心非仏、不渉一途、阿弥陀仏」と大書《たいしょ》したと云ふのである。玄浴主は、いかさま禅浄一如の至極境、と合槌《あいづち》を打つ。
客は湯冷めのせぬうちに、せめてもう一献《いっこん》の振舞ひに預《あずか》つて、ゆるゆる寝床に手足を伸ばしたいのだが、主人の意は案外の遠いところにあるらしい。それがこの辺から段々に分つて来た。尤《もっと》も最初からそれに気が附かなかつたのは、貞阿の方にも見落しがある。第一|殆《ほとん》ど二年近くも彼は玄浴主に顔を見せずにゐた。応仁の乱れが始まつて以来の東奔西走で、古い馴染《なじみ》を訪ねる暇もなかつたのである。自分としては戦乱にはもう厭々《あきあき》してゐる。しかし主人の身になつてみれば、紛々たる巷説《こうせつ》の入りみだれる中で、つい最近まで戦火の渦中に身を曝《さら》してゐたこの連歌師《れんがし》の口から、その眼で見て来た確かな京の有様を聞きたいのは、無理もない次第に違ひない。しかも戦乱の時代に連歌師の役目は繁忙を極めてゐる。差当《さしあた》つては明日にも、恐らく斎藤|妙椿《みょうちん》のところへであらう、主命で美濃《みの》へ立たなければならぬと云ふではないか。今宵をのがして又いつ再会が期し得られよう。……そんな気構へがありありと玄浴主の眼の色に読みとられる。
それにもう一つ、貞阿にとつて全くの闇中の飛礫《ひれき》であつたのは、去年の夏この土地の法華寺《ほっけじ》に尼公として入られた鶴姫のことが、いたく主人の好奇心を惹《ひ》いてゐるらしいことであつた。世の取沙汰《とりざた》ほどに早いものはない。貞阿もこの冬はじめて奈良に暫《しばら》く腰を落着けて、鶴姫の噂《うわさ》が色々とあらぬ尾鰭《おひれ》をつけて人の口の端《は》に上《のぼ》つてゐるのに一驚を喫したが、工合《ぐあい》の悪いことには今夜の話相手は、自分が一条家に仕へるやうになつたのは、そもそも母親が鶴姫誕生の折り乳母《うば》に上《あが》つて以来のことであるぐらゐの経歴なら、とうの昔に知り抜いてゐる。……
主人の口占《くちうら》から、あらまし以上のやうな推察がついた今となつては、客も無下《むげ》に情《じょう》を強《こわ》くしてゐる訳にも行かない。実際このやうな慌《あわただ》しい乱世に、しかも諸国を渉《わた》り歩かねばならぬ連歌師の身であつてみれば、今宵の話が明日は遺言とならぬものでもあるまい。それに自分としても、語り伝へて置きたい人の上のないこともない。……さう肚《はら》を据《す》ゑると、銅提《ひさげ》が新たに榾火《ほたび》から取下ろされて、赤膚焼《あかはだやき》の大|湯呑《ゆのみ》にとろりとした液体が満たされたのを片手に扣《ひか》へて、折からどうと杉戸をゆるがせた吹雪《ふぶき》の音を虚空《こくう》に聴き澄ましながら、客はおもむろに次のやうな物語の口を切つた。
*
御承知のとほり、わたくしは幼少の頃より、十六の歳でお屋敷に上《あが》りますまで、東福寺の喝食《かっしき》を致してをりました。ちやうどその時分、やはり俗体のままのお稚児《ちご》で、奥向きのお給仕を勤めてをられた衆のなかに、松王《まつおう》丸といふ方がございました。わたくしより六つほどもお年下でございましたらうか、御利発なお人なつこい稚児様で、ついお懐《なつ》きくださるままに、わたくしも及ばずながら色々とお世話を申上げたことでございました。これが思へば不思議な御縁のはじまりで、松王様とはつい昨年の八月に猛火《みょうか》のなかで遽《あわただ》しいお別れを致すまで、ものの十八年ほどの長い年月を、陰になり日向《ひなた》になり断えずお看《み》とり申上げるやうな廻《めぐ》り合せになつたのでございます。あの方のお声やお姿が、今なほこの眼の底に焼きついてをります。わたくしが今宵の物語をいたす気になりましたのも、余事はともあれ実を申せば、この松王様のおん身の上を、あなた様に聞いて頂きたいからなのでございます。
その頃は、先刻もお話の出ました雲章一慶さまも、お歳《とし》こそ七十ぢかいとは申せまだまだお壮《さか》んな頃で、かねがね五山の学衆の、或ひは風流韻事にながれ或ひは俗事|政柄《せいへい》にはしつて、学道をおろそかにする風のあるのを痛くお嘆き遊ばされて、日ごろ百丈清規《ひゃくじょうしんぎ》を衆徒に御講釈になつてをられました。その厳しいお躾《しつ》けを学衆の中には迷惑がる者もをりまして、今《いま》義堂などと嘲弄《ちょうろう》まじりに端《はし》たない陰口を利く衆もありましたが、御自身を律せられますことも洵《まこと》にお厳しく、十七年のあひだ嘗《かつ》てお脇を席《むしろ》におつけ遊ばした事がなかつたと申します。この御警策の賜物《たまもの》でございませう、わたくし風情《ふぜい》の眼にも、東福寺の学風は京の中でも一段と立勝《たちまさ》つて見えたのでございます。されば他の諸山からも、心ある学僧の一慶様の講莚《こうえん》に列《つら》なるものが多々ございました。その中には相国寺《しょうこくじ》のあの桃源|瑞仙《ずいせん》さまの、まだお若い姿も見えましたが、この方は程朱《ていしゅ》の学問とやらの方では、一慶さま一のお弟子であつたと伺つてをります。
このお二方はよく御同道で、一条室町の桃花坊(兼良邸)へ参られました。そのお伴にはかならず松王様をお連れ遊ばすのが例で、御利発な上に学問御熱心なこのお稚児《ちご》を、お二方ともよくよくの御鍾愛《ごしょうあい》のやうにお見受け致しました。わたくしが桃花坊へ上りました後々も、一慶さまや瑞仙さまが奥書院に通られて、太閤《たいこう》殿と何やら高声で論判をされるのが、表の方までもよく響いて参つたものでございます。さういふお席で、お伴について来られた松王様が、傍《かたわ》らにきちんと膝《ひざ》を正されて、易だの朱子だのと申すむづかしいお話に耳を澄ましてをられるお姿を、わたくしどももよく垣間見《かいまみ》にお見かけしたものでございました。
この松王様のことは、くだくだしく申上げるまでもなく、かねてお聞及びもございませう。右兵衛佐《うひょうえのすけ》殿(斯波義敏《しばよしとし》)の御曹子《おんぞうし》で、そののち長禄の三年に、義政公の御輔導役|伊勢《いせ》殿(貞親《さだちか》)の、奥方の縁故に惹《ひ》かされての邪曲《よこしま》なお計らひが因《もと》で父君が廃黜《はいちゅつ》[#ルビの「はいちゅつ」は底本では「はいちゅう」]の憂《う》き目にお遇ひなされた折り、一時は武衛《ぶえい》家の家督を嗣《つ》がれた方でございます。それも長くは続きませず、二年あまりにて同じ伊勢殿のお指金《さしがね》でむざんにも家督を追はれ、つむりを円《まる》められて、人もあらうにあの蔭凉軒《おんりょうけん》の真蘂西堂《しんずいせいどう》のもとに、お弟子に入られたのでございました。このお痛はしいお弟子入りについては、色々とこみ入つた事情もございますが、掻撮《かいつま》んで申
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