その横顔を、ああ松王様だとわたくしが見てとりましたとき、こちらを向いてにつこりお笑ひになりました。残兵どもは一たん引きました。その隙《すき》に「姫は」とお尋ねになります。「お落し申しました。」「やあ、また仕損じたか」と、まるで人ごとのやうな平気な仰《おっ》しやりやうをなさいます。つづけて、「細川の手の者が隣の羅刹《らせつ》谷に忍んでゐる。ここは間もなく戦場になるぞ。そなたも早く落ちたがよい。俺も今度こそは安心して近江へ往く。これを取つて置け」と小柄《こづか》をわたくしの掌《てのひら》に押しつけられたなり、そこへ迫つて参りました新手《あらて》の雑兵数人には眼もくれず、のそりと経蔵のかげへ消えてゆかれました。それなりわたくしはあの方にはお目にかからないのでございます。いいえ、今度こそは近江へ行かれたに違ひございません。これもわたくしのほんの虫の知らせではありますけれど、これがまた奇妙に当るのでございますよ。
 そののちのことは最早や申上げるほどの事もございますまい。その月の十九日には、関白さまは東の御方、鶴姫さまともども、奈良にお下りになりました。そして月の変りますと早々、これもあなた様よく御存じのとほり、姫君はおん齢《とし》十七を以て御落飾、法華寺の尼公にお直り遊ばしたのでございます。……ああ、あの文庫のことをお尋ねでございますか。あの夜ほどなく経蔵にも火はかかつたのでございますが、幸ひ兵どもが早く引上げて行つて呉《く》れましたため、百余合のうち六十二合は無事に助け出すことが叶《かな》ひました。それは只今《ただいま》当地の大乗院にお移ししてございます。先日もそのお目録のお手伝ひを致したところでございますが、もとの七百余合のうち残りましたのは十の一にも満ちませぬとは申せ、前に申上げました玉葉、玉蘂をはじめ、お家|累代《るいだい》の御記録としましては、後光明峰寺殿(一条|家経《いえつね》)の愚暦《ぐれき》五合、後|芬陀利花《ふだらく》院の玉英一合、成恩寺《じょうおんじ》殿(同|経嗣《つねつぐ》)の荒暦《こうりゃく》六合、そのほか江次第《ごうしだい》二合、延喜式《えんぎしき》、日本紀、文徳実録、寛平御記《かんぴょうぎょき》各一合、小右記《しょうゆうき》六合などの恙《つつが》なかつたことは、不幸中の幸ひとも申せるでございませう。それに致しましても此度《このたび》の兵乱にて、洛中洛外《らくちゅうらくがい》の諸家諸院の御文書御群書の類《たぐ》ひの焼亡いたしましたことは、夥《おびただ》しいことでございましたらう。それを思ひますと、あらためてまた桃花坊のあの口惜《くちお》しい日のことも思ひいでられ、この胸はただもう張りさけるばかりでございます。人伝《ひとづ》てに聞及びました所では、昨年の暮ちかく上皇様には、太政官《だいじょうかん》の図籍の類を諸寺に移させられました由《よし》でございますが、これも今では少々後の祭のやうな気もいたすことでございます。
 ああ、どうぞして一日も早く、このやうな戦乱はやんで貰《もら》ひたいものでございます。さりながら京の様子を窺《うかが》ひますと、わたくしのまだ居残つてをりました九月の初《はじめ》には嵯峨の仁和《にんな》、天竜《てんりゅう》の両|巨刹《きょさつ》も兵火に滅びましたし、船岡山では大合戦があつたと申します。十月には伊勢殿の御勘気も解けて、上洛《じょうらく》御免のお沙汰《さた》がありましたとやら、またそのうち嘸《さぞ》かし色々と怪しげな物ごとが出来《しゅったい》いたすことでございませう。さう申せば早速にも今出川殿(足利|義視《よしみ》)は、霜月《しもつき》の夜さむざむと降りしきる雨のなかを、比叡へお上りになされたとの事、いやそれのみか、遂《つい》には西の陣へお奔《はし》りになつたとやら。この師走《しわす》の初め頃、今出川殿討滅御|祈祷《きとう》の勅命《ちょくめい》が興福寺に下りました折ふしは、いや賑《にぎ》やかなことでございましたな。さてもこの世の嵐はいつ収まることやら目当てもつきませぬ。お互ひにあまりくよくよするのは身の毒でございませう。はや夜もだいぶん更けました様子。どれお名残《なご》りにこれだけ頂戴《ちょうだい》いたして、あす知らぬわが身の旅の仮の宿、お障子《しょうじ》にうつる月かげなど賞しながら、お隣でゆるりと腰をのさせていただきませう。……



底本:「日本幻想文学集成19 神西清」国書刊行会
   1993(平成5)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「神西清全集」文治堂
   1961(昭和36)年発行
初出:「文藝」河出書房
   1946(昭和21)年3、4月合併号
※「太刀《たち》」と「大刀《たち》」、「桃華文庫」と「桃花文庫」、の混在は、底本どおりにしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※このファイルには、以下の青空文庫のテキストを、上記底本にそって修正し、組み入れました。
「雪の宿り」(入力:佐野良二、校正:門田裕志、小林繁雄)
入力:小林繁雄
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年12月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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