、さしもうづ高く積まれてありましたお文櫃《ふみびつ》は、いづくへ持ち去つたものやら、そこの隅かしこの隅に少しづつ小さな山を黒ずませてゐるだけでございます。青侍《あおさぶらい》どもはみな逃亡いたして姿を見せません。顫《ふる》へながらも居残つてをりました仕丁両三名を励ましつつ、お倉の中を検分にかかりますと、そこの山の隈《くま》かしこの山の陰から、ちよろちよろと小鼠《こねずみ》のやうに逃げ走る人影がちらつきます。難民の小倅《こせがれ》どもがまだ諦《あきら》めきれずに金帛《きんぱく》の類を求めてゐるのでございませう。……かうしてさしもの桃華文庫もあはれ儚《はかな》く滅尽いたしたのでございます。残りましたお文櫃はそれでも百余合ほどございましたが、これは光明峰寺へ移し納め、わたくしもそれに附いてそちらへ引き移りました。わたくしは取るものも取敢《とりあ》へずその夜のうちに随心院へ参り、雑兵劫掠《ぞうひょうきうょりゃく》の顛末《てんまつ》を深夜のことゆゑお取次を以て言上《ごんじょう》いたしましたところ、太閤《たいこう》にはお声をあげて御|痛哭《つうこく》あそばしました由《よし》、それを伺つてわたくしはしんから身を切られる思ひを致したことでございました。光明峰寺へ移されましたお櫃の中には新玉集の御稿本は終《つい》に一帖も見当らなかつたのでございます。
いやもう一つ、わたくしが気を失つて倒れてをりました間に、つい近所の町筋では無慚《むざん》な出来事が起つたのでございました。翌日になつて人から聞かされました事ゆゑ、くはしいお話は致し兼ねますが、兼ねて下京《しもぎょう》を追出されてをりました細川方の郎党衆、一条|小川《こかわ》より東は今出川まで一条の大路に小屋を掛けて住居してをりましたのが、この桃花坊の火、また小笠原殿の余炎に懸《かか》つて片端より焼け上り、妻子の手を引き財物を背に負うて、行方も知らず右往左往いたした有様、哀れと言ふも愚かであつたと人の語つたことでございました。かやうにして内裏《だいり》の東西とも一望の焼野原となりました上は、細川方は最早や相国寺を最後の陣所と頼んで、立籠《たてこも》るばかりでございます。
けれども程なく十月の三日には、その相国寺の大伽藍《だいがらん》も夥《おびただ》しい塔頭《たっちゅう》諸院ともども、一日にして悉皆《しっかい》炎上いたしたのでございます。山名方の悪僧が敵に語らはれて懸けた火だと申します。この日の戦さの凄《すさ》まじさは後日人の口より色々と聞き及びましたが、ともあれ黄昏《たそがれ》に至つて両軍相引きに引く中を、山名方は打首《うちくび》を車八|輛《りょう》に積んで西陣へ引上げたとも申し、白雲の門より東今出川までの堀を埋《うず》むる屍《しかばね》幾千と数知れなかつたとも申してをります。
さあこの報せが光明峰寺にとどきますと、鶴姫様の御心配は筆舌《ひつぜつ》の及ぶところではございません。早々にお見舞ひの御消息がわたくしに托《たく》せられます。それを懐《ふところ》にわたくしが相国寺の焼跡に立つたのは、翌《あく》る日のかれこれ巽《たつみ》の刻でもございましたらうか。さしも京洛《きょうらく》第一の輪奐《りんかん》の美を謳《うた》はれました万年山相国の巨刹《きょさつ》も悉《ことごと》く焼け落ち、残るは七重の塔が一基さびしく焼野原に聳《そび》え立つてゐるのみでございます。そこここに死骸《しがい》を収める西方らしい雑兵どもが急しげに往来するばかり、功徳池《くどくいけ》と申す蓮池《はすいけ》には敵味方の屍がまだ累々《るいるい》と浮いてをりますし、鹿苑院《ろくおんいん》、蔭凉軒の跡と思《おぼ》しきあたりも激しい戦《いくさ》の跡を偲《しの》ばせて、焼け焦げた兵どもの屍が十歩に三つ四つは転《まろ》んでゐる始末でございます。物を問はうにも学僧衆はおろか、承仕法師《じょうじほうし》の姿さへ一人として見当りません。もしや何か目じるしの札でもと存じ灰塵《かいじん》瓦礫《がれき》の中を掘るやうにして探ねましたが、思へば剣戟《けんげき》猛火のあひだ、そのやうなものの残つてゐよう道理もございません。わたくしは途方に暮れて佇《たたず》んでしまひました。
その日は空しく立戻り、次の日もまた次の日も、わたくしは御文を懐《ふところ》にしつつ或《ある》は功徳池のほとりに立ち暮らし、或は心当てもなく焼け残つた巷《ちまた》々を探ね廻りましたが、松王様に似たお姿だに見掛けることではございません。そのうちに日数はたつて参ります。相国寺合戦の日の色々と哀れな物語も自然と耳にはいつて参ります。中でも一入《ひとしお》の涙を誘はれましたのは、細川殿の御曹子《おんぞうし》、六郎殿のおん痛はしい御最後でございました。当年十六歳の六郎殿は、この日東の総大将として馬廻りの者わづか五百騎ばかりを以て、天界橋《てんがいばし》より攻め入る大敵を引受け、さんざんに戦はれましたのち、大将はじめ一騎のこらず討死《うちじに》せられたのでございますが、戦さ果てても御|遺骸《いがい》を収める人もなく、犬狗《いぬえのこ》のやうに草叢《くさむら》に打棄《うちす》ててありましたのを、やうやく御生前に懇意になされた禅僧のゆくりなくも通りすがつた者がありまして、泣く泣くおん亡骸《なきがら》を取収め、陣屋の傍に卓《つくえ》を立て、形ばかりの中陰《ちゅういん》の儀式をしつらへたのでございます。ところが或る日のこと、ふとその禅僧が心づきますと硯箱《すずりばこ》の蓋《ふた》に上絵《うわえ》の短冊が入れてありまして、それには、
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さめやらぬ夢とぞ思ふ憂《う》きひとの烟《けむり》となりしその夕べより
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と、哀れな歌がしたためてあつたと申すことでございます。人の噂《うわさ》では、これはさる公卿《くぎょう》の御息女とこの六郎殿と御契りがありまして、常々|文《ふみ》を通はせられてをられましたが、その方の御歌とか申しました。この物語を耳にしましたとき、あまりの事の似通ひにわたくしは胸をつかれ、こればかりは姫のお耳に入れることではない、この心一つに収めて置かうと思ひ定めましたが、なほも日数を経て何ひとつお土産《みやげ》話もない申訳なさに、ある夕まぐれついこのお話を申上げましたところ、もはや夕闇にまぎれて御|几帳《きちょう》のあたりは朧《おぼ》ろに沈んでをりますなかで、忍び音《ね》に泣き折れられました御様子に、わたくしも母親も共々に覚えず衣の袖《そで》を絞つたことでございました。
そのやうな不吉な兆《きざ》しに心を暗くしながらも、なほもお跡を尋ねてその日その日を過ごしてをりますうち、やがて十一月の声を聞いて二三日がほどを経ました頃でございます。わたくしは今出川の大路を東へ、橋を越して尚《なお》もさ迷つて参りますうち、地獄谷への坂道にやがて掛らうといふあたりで、のそりのそりと前を歩んで参る僧形《そうぎょう》の肩つきが、なんと松王様に生き写しではございませんか。もしやとお声をかけてみますと、振向かれたお顔にやはり間違ひはございませんでした。やれ嬉《うれ》しやとわたくしは走せ寄りまして、お怨《うら》みも御祝著《ごしゅうちゃく》も涙のうちでございます。「いや許せ許せ。俺《おれ》が悪かつたよ」と相変らずの御|豁達《かったつ》なお口振りで、「俺はあれからこつち、この谷奥の庵《いおり》に住んでゐる。真蘂《しんずい》和尚と一緒だよ。地獄谷に真蘂とは、これは差向き落首《らくしゅ》の種になりさうな。あの狸《たぬき》和尚、一思ひに火の中へとは考へたが、やつぱり肩に背負つて逃げだして、あとから瑞仙《ずいせん》殿に散々に笑はれたわい。まあこの辺が俺のよい所かも知れん」などと早速の御冗談が出ます。まあ少し歩きながら話さうとの仰《おお》せで、わたくしの差上げました御消息ぶみ七八通を、片はしより披《ひら》かれてお眼を走らせながら、坂を足早に登つて行かれます。池田のあたりから右へ切れて、小高い丘に出たところで、さつさとその辺の石に腰をおかけになります。「まあそなたも坐《すわ》れ。ここからは京の焼跡がよう見えるぞ」とのお言葉に、わたくしも有合ふ石に腰をおろしました。
わたくしは更《あらた》めて一望の焼野原をつくづくと眺めました。本式の戦さが始まつてより、まだ半年にもならぬ間に、まつたくよくも焼けたものでございます。ちやうど真向ひに見えてをります辺りには、内裏《だいり》、室町殿、それに相国寺の塔が一基のこつてをりますだけ、その余は上京《かみぎょう》下京《しもぎょう》をおしなべて、そこここに黒々と民家の塊《かたま》りがちらほらしてをりますばかり、甍《いらか》を上げる大屋高楼は一つとして見当りません。眺めてをりますうちに、くさぐさの思ひが胸に迫り、覚えずほろほろと涙があふれさうになつて参ります。松王様も押黙られたまま、姫の御消息を打ち返し打ち返し読んでをられます。沈黙《しじま》のうちに小半時もたちましたでせうか。……
と、松王様はゆきなりお文を一くるみに荒々しく押し揉《も》まれて、そのまま懐《ふところ》ふかく押し込まれると、つとこちらを振り向かれて、「どうだ、よう焼けをつたなあ。相国《てら》も焼けた、桃花文庫《ふみぐら》も滅んだ、姫もさらひそこねた、はははは」と激しい息使ひで吐きだすやうにお話しかけになりました。例になく上ずつたお声音《こわね》に、わたくしは初めのうちわが耳を疑つたほどでございます。わたくしが何と申上げる言葉もないままでをりますと、松王様は尚《なお》もつづけて、お口疾《くちど》にあとからあとから溢《あふ》れるやうに、さながら憑物《つきもの》のついた人のやうにお話しかけになります。それが後では、もうわたくしなどのゐることなどてんでお忘れの模様で、まるで吾《われ》とわが心に高声で言ひ聴かすといつた御様子でございました。わたくしは何か不気味な胸さわぎを覚えながら、じつと耳を澄まして伺つてをりました。いろいろと難しい言葉も出て参りますので一々はつきりとは覚えませんけれど、大よそはまづ次のやうなお話なのでございました。
「この焼野原を眺めて、そなたはさぞや感無量であらうな。俺も感無量と言ひたいところだが、実を云へば頭の中は空つぱうになりをつた。今日は珍しく京のどこにも兵火の見えぬのが却《かえ》つて物足らぬぐらゐだ。俺は事に餓《う》ゑてをる。事がなくては一日半時も生きてはゆけぬと思ふほどだ。それを紛らはさうと、そなたはよもや知るまいが、俺は夜闇にまぎれて毘沙門《びしゃもん》谷のあたりを両三度も徘徊《はいかい》してみたぞ。姫があの寺へ移られたことは直きに耳に入つたからな。そしてあの小径《こみち》この谷陰と、姫をさらふ手立をさまざまに考へた。どういふ積りかは知らぬが、仰山《ぎょうさん》に薙刀《なぎなた》までも抱へてをつた。いや飛んだ僧兵だわい。その三晩目に、姫を寝所から引つさらふことは、案外に赤子の首をひねるよりた易《やす》いことが分つた。手順は立派に調つた。そなたなんどは高鼾《たかいびき》のうちに手際よくやつてのけられる。そこで俺は馬鹿《ばか》々々しくなつてやめてしまつた。よくよく考へてみたところ、俺の欲しいのは姫ではなくして事であつた。それが生憎《あいにく》『事』ほどの事で無いのが分つたまでだ。姫のうへは気の毒に思ふ。だが所詮《しょせん》、俺が引つさらつて見たところであの姫の救ひにはならぬ、この俺の救にもならぬ。……
「それ以来、俺は毎日この丘へ登つて、焼跡を見て暮した。何か事を見附けださうとしてだ。どこぞで火煙の立つ日は心が紛れた。それのない日は屈托《くったく》した。さて、恋が事でなかつたとすればお次は何だ。俺はまづ政治といふものを考へてみた。今度の大乱の禍因をなしたのは誰だ、それを考へてみようとした。それで少しは心が慰さまうかと思つたのだ。世間では伊勢殿が悪いといふ。成程《なるほど》あの男は奸物《かんぶつ》だ、淫乱だ、私心もある、猿智慧《さるぢえ》もある。それに俺としても家督を追はれ
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