りん》もあるよい人だ。只《ただ》惜しいかな名利が棄《す》てられぬ。信頼《のぶより》や信西《しんぜい》ほどの実行の力も気概もない。そして関白争ひなどと云ふをかしな真似《まね》をしでかしては風流学問に身をかはす。惜しい人物だ。それにつけても兄《あに》様の一慶和尚は立派なお人であつたぞ。いまだに覚えてゐる、『儒教デモ善ト云フモ悪ニ対スルホドニ善ト悪トナイゾ、中庸ノ性ト云フタゾ』などと、幼な心に何の事とも分らず聞いてをつたあの咄々《とつとつ》とした御音声《ごおんじょう》が、いまだに耳の中で聞えてゐる。そもそも俺のやうな下品下生《げぼんげしょう》の男が、実理を覚《さと》る手数を厭《いと》うて空理を会《え》さうなどともがき廻るから間違ひが起る。さうだ、帰るのだ、やつと分つたよ。虎関、夢窓、中巌、義堂、そして一慶さま……あの懐しい師匠たちの棲《す》まふ伝統へ、宋《そう》の学問へ、俺は帰るのだ。」
 そこでやうやく言葉を切られますと、そのまま石からお腰を上げて、こちらは見向きもなさらず丘を下りて行かれます。わたくしは呆《あき》れて追ひすがり、「ではこの先どこへおいで遊ばす」と伺ひますと、「明日にも近江
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