向つても甲斐《かい》はあるまい、この倉の中味を説き聴かせ、宥《なだ》めて帰すほかはあるまいとわたくしは心づきまして、一手の者の背後に離れてお築山《つきやま》のほとりにをりました大将株とも見える髯《ひげ》男の傍へ歩み寄りますと、口を開く間もあらばこそ忽《たちま》ちばらばらと駈《か》け寄つた数人の者に軽々と担ぎ上げられ、そのまま築山の谷へ投げ込まれたなり、気を失つてしまつたのでございます。足が地を離れます瞬間に、何者かが顔をすり寄せたのでございませう、むかつくやうな酒気が鼻をついたのを覚えてゐるだけでございます。……
 やがて夕暮の涼気にふと気がつきますと、はやあたりは薄暗くなつてをります。風は先刻よりは余程ないで来た様子ながら、まだひようひようと中空に鳴つてをります。倒れるときお庭石にでも打ちつけたものか、脳天がづきりづきりと痛《や》んでをります。わたくしはその谷間をやうやう這《は》ひ上りますと、ああ今おもひ出しても総身《そうみ》が粟《あわ》だつことでございます。あの宏大もないお庭先一めんに、書籍冊巻の或ひは引きちぎれ、或ひは綴《つづ》りをはなれた大小の白い紙片が、折りからの薄闇のなかに
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