数しれず怪しげに立ち迷つてゐるではございませんか。そこここに散乱したお文櫃《ふみびつ》の中から、白蛇のやうにうねり出てゐる経巻《きょうかん》の類《たぐ》ひも見えます。それもやがて吹き巻く風にちぎられて、行方も知らず鼠《ねずみ》色の中空へ立ち昇つて参ります。寝殿《しんでん》のお焼跡のそこここにまだめらめらと炎の舌を上げてゐるのは、そのあたりへ飛び散つた書冊が新たな薪《たきぎ》となつたものでもございませう。燃えながらに宙へ吹き上げられて、お築地《ついじ》の彼方《かなた》へ舞つてゆく紙帖もございます。わたくしはもうそのまま身動きもできず、この世の人の心地もいたさず、その炎と白と鼠いろの妖《あや》しい地獄絵巻から、いつまでもじいつと瞳を放てずにゐたのでございます。口をしいことながら今かうしてお話し申しても、口|不調法《ぶちょうほう》のわたくしには、あの怖ろしさ、あの不気味さの万分の一もお伝へすることが出来ませぬ。あの有様は未だにこの眼の底に焼きついてをります。いいえ、一生涯この眼から消え失せる期《ご》のあらうことではございますまい。
やうやくに気をとり直してお文倉《ふみぐら》に入つてみますと
前へ
次へ
全65ページ中40ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
神西 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング