ことではないぞ」などと、仰《おお》せになつたものでございます。この御言葉だけでも、わたくしにはどれほど心づよく思はれましたことか。のみならず夕暮どきなど、裏庭の築山《つきやま》のあたりからこつそり忍んで参られることもございました。そのやうな折節には、母親のひそかな計らひで、片時の御対面もあつたやうでございました。また時によつては、「文庫を燃させなんだらその褒美《ほうび》に、姫をさらつて行くからさう思へ」などと御冗談もございました。実を申せばわたくしは内心に、どれほどさうなれかしと望んだことで御座いませう。渦を巻く猛火《みょうか》のなかを、白い被衣《かつぎ》をかづかれた姫君が、鼠《ねずみ》色の僧衣の逞《たくま》しいお肩に乗せられて、御泉水のめぐりをめぐつて彼方《かなた》の闇にみるみるうちに消えてゆく、そのやうな夢ともつかぬ絵姿を心に描いては、風の吹き荒れる晩など樹立《こだち》のざわめくお庭先の暗がりに、よく眺め入つたものでございました。悲しいことに、それもこれも現《うつつ》とはなりませんでした。尤《もっと》もわたくしの眼《まなこ》の中にゑがいた火の色と白と鼠の取り合はせは、後日まつたく思
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