開封もせずに渡した。ときには部屋の一隅に何か口実を見つけて佇《たたず》んだまま、手紙を読んで行く明子の顔をそれとなく窺《うかが》つてゐたりした。そして母は比較的明るい印象を娘の表情から得てゐたものらしかつた。母の警戒は伊曾に関するものなら一切、たとへそれが展覧会についての二三行の新聞記事であつても、決して娘の眼に触れさせなかつた。その反面に、村瀬を許すやうな素振りを見せさへした。
 明子にはこの母の態度がひどく神経にさはつた。彼女は母の見え透いた技巧を侮蔑《ぶべつ》した。
 今更のやうに明子は苦渋な反芻《はんすう》をした。――
 モナ・リザの微笑に惑《まど》はされた伊曾が結婚について夢中になり出したとき、明子は寧ろ冷やかにそれを利用したのだ。彼女は自ら、モナ・リザの微笑がすばやく消失するだらうことはよく知つてゐた。そんな微笑の脆《もろ》さを自分で見抜いてゐた彼女はただ冷やかに成行を見てゐた。この結婚の成就《じょうじゅ》は彼女に一つの欲望を満足させる道を開くだけのものに過ぎないのを彼女は感じてゐた。彼女は伊曾の肉体も感情も二つとも所有してゐた。その上にもう一つのそして最後の欲望は彼を独占することだつた。これは強い欲望だつた。だが、それを遂《と》げるための戦《いくさ》は寧ろ結婚ののちに開始されるに異《ちが》ひなかつた。彼等は別々の意味でその結婚を急いでゐたのだが、どつちかと言へば、子供のやうな単純さで自ら瞞《だま》されてゐた愚かさは伊曾の方にあつたと言へる。
 果して彼女が期待した通り、結婚はあまりに早いモナ・リザの消失に過ぎなかつた。これは覚悟してゐた。彼女は自ら用意してゐたと信じた第二の武器に縋《すが》りついた。が間もなく、彼女の過信だつたことが明かになつた。明子は敗れた。明子が女性としての武器を確かに握りしめてゐると思つた自分の手の中は空つぽだつた。伊曾が愚かな洪水のやうに、彼女を越えて奔流した。
 冷たい理智でこの機会を待ち設けてゐたに異《ちが》ひない劉子は伊曾を奪ひ返しはじめてゐた。つい六ヶ月ほどまへ劉子の歴史に一つのポアンを打つたばかりの明子は、再び硬いポアンとして青空の真中へ弾《はじ》き出される運命を自覚することになつた。明子は歯をくひしばつてこの変化の中に身もだえした。だが、身をもがけばもがくだけ、彼女には自分が瘠《や》せて蒼白《あおじろ》い一人の少女に過ぎないことがはつきりと感じられた。劉子の呪《のろ》ひにかかつて、実際自分が硬い一つのポアンにかじかん[#「かじかん」に傍点]でしまつたやうな気がした。
 村瀬が明子の周囲に現はれはじめたのは丁度《ちょうど》こんな争闘の前後にだつた。彼女は或る会館のプールのふちで、この青年が彼女に近づきたがつてゐるのを発見した。明子は青年の姿を藍《あい》色の層をした水に映して眺めたとき、鼻を鳴らして慕ひ寄る一匹の小犬を聯想《れんそう》した。実際小犬のやうに青年は潔白だつた。だが明子はこの青年に、彼が欲しがつてゐる肉体は与へなかつた。その一歩手まへのものは投げるやうにして早く与へてゐたけれど。青年は従順に彼女の後に従つて来た。明子の女が期待を失しながらも次第に眼を開きかけてゐたのである。
 一方危機は明子の心臓の昂進《こうしん》とともに確実な足どりで近づきつつあつた。それは主として伊曾に起つた新たな欲望に因《よ》るものだつた。伊曾と劉子は日ごとに白い死の方へと堕《お》ちて行つた。
 白い格闘が果てしなく繰返され、つひにある時明子はその最後の徴《しる》しを見た様に思つた。不幸なことに、全く同時に彼女は心臓の激しい発作で卒倒しかけた。突然一つの腕が彼女を支へた。村瀬の腕だつた。明子は村瀬と一つ影になつて失踪《しっそう》した。白痴的なこの最後の芝居が、一つの決定を促《うなが》すことになつた。彼等の失踪の翌夜、伊曾と劉子の情死が行はれたのである。伊曾の手で鋭いメスの一撃が劉子の頸部《けいぶ》に加へられた。劉子の端麗な容貌《ようぼう》が音もなく彼の腕の中で失心して行つた。次《つ》いで伊曾は自らの頸部を切り裂いた。
 失踪した村瀬と明子は三の宮駅で家からの追手に発見された。彼等は色を失つた宝石だつた。二人は別々の列車で東京に連れ帰された。途中の寝台車のなかで、明子は自らの肉体の中に或る不思議な他の者の動揺を感じた。胎動《たいどう》に異ひなかつた。それに伴《つ》れて彼女の心臓も思ひ出したやうに苦痛を訴へはじめた。明子はこの時さめざめと泣いた。人々は彼女の不幸を哀れんだ。[#「哀れんだ。」は底本では「哀れんだ」]
 人々は何も知らなかつたのだ。明子がはじめての母性の感傷に囚《とら》はれて泣いたのであることも、心臓の苦痛はただ彼女の泣声を昂《たか》めただけに過ぎないことも、彼女の涙が寧《むし》ろ幸福な温い涙であつたことも、人々は何も知らないのだ。……

 恢復《かいふく》期にある明子はよくこの苦渋な回想を反芻《はんすう》した。彼女はそれに残酷な愉《たの》しさを味《あじわ》ふと言ふ風にさへ見えた。しかしこれらの光景の展開は彼女の恢復にしたがつて、次第に朦朧《もうろう》とした霧の向ふに消えて行つた。その霧の表面には幼児の蒼《あお》ざめた四肢が来て伸び横《よこた》はつた。
 明子は家の中でさへ素足では歩かないやうになつてゐた。彼女は脚《あし》を厚い毛の靴下で包んだ。膏脂《こうし》の涸《か》れた彼女の皮膚は痛々しく秋風に堪へなかつた。いつか彼女の手の尖《さき》には化粧の匂ひが消えずに残りはじめた。ふくよかな化粧の香気が秋の進むにつれて次第に濃く彼女の身辺にまつはつた。彼女は自分の皮膚を包む癖を覚えてしまつた。
 その頃になつて、ある日明子は村瀬に手紙を書いて彼を誘ひ出した。彼等は諜《しめ》し合はせて或る映画館の一隅で落ち合つた。三の宮駅で離されて以来はじめての会見だつた。
 彼等が取つた席はエクランとはひどく斜めの位置にあつた。映画は始まつてゐた。彼等の席の周囲には黒い人影が混み合つて無言のまま前後左右に揺れ動いてゐた。彼等も黙つてそれらの影に加はつた。何か古ぼけた曲馬団の悲劇がエクランを流れてゐた。道化役の白い衣裳《いしょう》が不恰好《ぶかっこう》に歪《ゆが》んで吊《つる》されたやうにエクランの中心を横切つたりした。その白ぼけた光がある時はエクラン一ぱいに膨らみ、客席の人の顔を鈍く照し出すのだつた。明子はそのたびに隣の村瀬の方をぬすみ見した。微光はすぐに消えて、彼女は青年の表情を読むひまはなかつた。何時《いつ》のまにか明子は、きつちりと黒の手袋をはめた自分の手の中に村瀬の手を握りしめてゐた。村瀬はぼんやりと映画の流れに視線をまかせてゐる風に見えた。
 彼女は熱い吐息をボアの羽根毛のなかに漏《もら》した。彼女に何物かが潤《うる》んで見えた。何処《どこ》かに生温い涙の匂ひを嗅《か》ぐやうに思つた。明子は眼をつぶつて頸《くび》を縮め、ボアの羽根毛のなか深く顔を埋め込んだ。吐息に蒸されて滴《しずく》を結んだ羽根毛がつめたく鼻のあたりを湿《しめ》した。それが情感の遣《や》り場のない涙の感触に肖《に》てゐたのかも知れない。エクランでは銀色に溶け入るやうな脚をした一人の踊子が、乱れた食卓の上で前|屈《かが》みに佇《たたず》んで、不思議に複雑な笑ひを漏した。
 映画が消えた。花咲いた明るい燈光のなかで二人は久し振りに顔をまともに見合つた。青年は案外に健康さうな双頬《そうきょう》に純真な火照《ほて》りを漂はせて明子を眩《まぶ》しさうに見上げてゐた。明子の顔を微笑が波うつた。二人はうなづき合つて外に出た。彼等は群《むらが》る自動車の濤《なみ》を避けて、濠端《ほりばた》の暗い並木道に肩を並べた。妙に犯すことの出来ない沈黙が二人を占めてゐた。明子が先にそれを破つて青年に言つた。
 ――私をどうして下さるの?
 漠然と響いて呉《く》れればいいと冀《こいねが》つた。けれど声が変に熱い波動を帯びて顫《ふる》へてゐた。明子は意識しながら、それをどうすることも出来なかつた。
 ――え?
 青年は訝《いぶか》るやうに、が予期してゐたかの様に立ちどまつて彼女を視《み》た。彼は明子の声を顫へを認めたのだ。言葉の意味は、寧《むし》ろ青年の寄越《よこ》した手紙の束を内容づける将来の決心に対する漠然とした質問には異《ちが》ひなかつた。仮令《たとえ》さうにせよ、青年はこの瞬間、抽象的な説明がただ一つの現実行動によつて置換され満足される或る微妙な一瞬の到来を見破つたのである。しばらく青年はためらひながら明子を熟視した。やがて村瀬の眼に青年らしい決断の色が閃《ひら》めいた。一台の自動車がそれを狙《ねら》つてゐたかのやうに音も無く滑り寄つて来た。明子は不思議な感動が自分の総身《そうみ》を熱くするのを感じた。あらゆる毛孔《けあな》が一時に息を吐いたやうだつた。明子はその秘密に気取《けど》られるのを嫌忌《けんき》するかの様にすばやく身を飜《ひるがえ》して自動車のステップを踏んだ。女は熱く湿つた呼吸をボアの羽根毛に埋め込んだ。

 明子は村瀬の肉体を知つた。彼女はレダのやうに身をもがいた。彼女の顔には、幼児に乳をふくませる母親の柔和さがあつた。ともすればそれは、反対に幼児から血を吸ひ取る残酷なものの微笑とも思はれた。

 その頃街に一つの噂《うわさ》があつた。
 第一の人が言つた。
 ――私は彼等が公園を歩いて行くのを見た。彼等は頸《くび》に菊の花を着けて誇らしげな様子だつた。
 第二の人が言つた。
 ――私は彼等が百貨店の陳列窓を覗《のぞ》いてゐるところを見掛けた。私が近づいて行くと男は傲然《ごうぜん》と私を見返したが、女は寧《むし》ろ避けるやうに自分の菊の花を向ふ側に向けた。
 第三の人が言つた。
 ――私は女が一人で或る省線の歩廊から電車に乗らうとするところに行き会つた。私が性急に乗り込まうとすると、女は一たん車台に掛けた片足を態々《わざわざ》引つ込めて、人を見下すやうな例の微笑を示しながら私に先を譲つた。頸には紫色の菊の花をつけて。
 噂は明子の耳にも伝つて来た。言ふまでも無くそれは伊曾と劉子に関するものに異《ちが》ひなかつた。そしてこれらの人々の観察はどれも夫々《それぞれ》一面の真相と一面の反感に依《よ》る大きな歪《ゆが》みとを有《も》つてゐるのに相違なかつた。
 明子はこの噂を耳にしたとき、不思議に美しいものを見たやうに思つた。それは或ひは、さまざまな出来事が彼女を無残に踏み荒したあとの疲労が知らず知らず彼女の情感の反射熱を昂《たか》めてゐたせゐに異ひない。情感はいつ知れず彼女の胸に丸やかな肉の線を与へてゐた。呼吸をするたびに、その胸の線がまるで白鳥の胸のやうに豊かにふくらんだ。膏脂《こうし》が体内に沈澱《ちんでん》して何か不思議な重さで彼女自身を懶《ものう》くした。いつか皮膚にも同じ膏脂は再び流れはじめてゐたが、それは外光に見るとき寧ろ醜い色合を有つてゐた。彼女は日に幾度ひそかにそれを化粧水で拭《ふ》きとるか知れなかつた。そんな状態にある明子が、彼等二人の頸に咲いてゐるといふ血紫色の菊の花をまざまざと見るやうに思つた。
 明子はこの二つの花がまるで彼女自身の許しを得て開いたもののやうに感じた。彼女の許しなしには遂《つい》に咲く機会のなかつたに異《ちが》ひない菊の花なのだ。折角《せっかく》こんな麗《うる》はしさに花咲いた菊を今更どこへ置かうかと思ひ惑《まど》つた。
 敗北の感じも、憎悪の感じも、二つながら無かつた。明子は劉子の呪《のろ》ひの輪を抜け出して、今はもう硬い青いポアンなんかではなかつた。そんな窮屈な輪は苦渋な涙と一緒に消え弾《はじ》け、彼女はもつとふくよかに空間に拡《ひろが》つた一つの美しい円であつた。寧《むし》ろ彼等二人を憐《あわれ》まなければならないのは彼女の方だつた。彼等はお互《たがい》に菊の花を有《も》ちながら、いつ迄その子供らしい危険な遊戯を続けて行くのであらうか。その菊の花は私が貰《もら》はなければならない。……母
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