親が危険な玩具《おもちゃ》を子供たちから取り戻すやうな気持で、明子はさう思ひめぐらした。
秋がおほらかに天を渡りつつあつた。この豊かな光の下で彼等二人も美しい生活を織り始めてゐるのに異ひなかつた。明子は明子で自らの美しい生活を振り返つた。彼女の眼に村瀬の栗《くり》色の肉体が仄見《ほのみ》えた。ただ一つ、菊の花の遣《や》り場が彼女を思ひ惑はせてゐた。
仄見えた村瀬の肉体がこのとき不思議な方法で変化しつつあつた。明子は夢みる眸《ひとみ》を空間に送つてゐた。
やがて変化が完成された。そこには彼女の天の幼児が蒼《あお》ざめた肉体を横《よこた》へてゐた。彼女は思ひ当つた。
――さう、あの二つの菊の花はあの子の両手にこそふさはしい。
彼女の思念をこの時何物かが音もなく溶け去つて行つた。彼女は豊かに胸をはつて、満足した母親の眼を天の幼児に投げた。幸福な一瞬がそこを訪れてゐた。彼女は思ひ疲れていつか眼をつぶつた。
村瀬が急に変つた徴候をあらはしはじめた。子供じみた彼の顔から血紅が落潮の早さで退《ひ》いて行くのを明子は見た。それと反対に、彼は屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》子供つぽい反抗を彼女に示すやうになつた。憑《つ》かれたもののやうに、眼を一杯に見開いて突然彼女の腕を逃れようと身もだえすることも度重《たびかさ》なつた。
明子は、村瀬が確かに何かを見たのに異ひないと思つた。だが、この青年にこんな影響を与へるものとは一体何だらう。明子は或る時思ひ切つてこのことを村瀬に詰問した。
――僕はあなたの肖像を見ちやつたんです。
村瀬が子供つぽい反抗に唇を蒼《あお》ざめさせてさう答へた。
――それは、伊曾が描いたものだつたの?
――もしさうだつたとしたら、貴女《あなた》はどんな気がします。
彼は興奮で白つぽくなりながら叫んだ。
――さうね。少しは淋《さび》しい気がするかしら。でも、何故《なぜ》それがそんなに一生懸命にならなければならない問題なの。あの人にはあの人の世界があるわ。その世界で何を描いたつて、何も私まで大騒ぎすることはないでせう。
明子は落着いた調子で答へた。その声は幼児に対する慈母の優しさを帯びてゐた。だが、声を裏切つて、明子の顔にこのとき不思議な表情が浮んでゐた。蒼《あお》ざめた唇が歪《ゆが》み、彼女は久し振りで、忘れられたモナ・リザの笑ひを笑つた。村瀬は彼女の顔を見たが、もう何も言はなかつた。
明かに村瀬は何かを匿《かく》してゐた。彼は子供の執拗《しつよう》さで秘密を守つた。世間から遠ざかつてゐる明子には想像出来ない、何かつまらぬ物に異《ちが》ひなかつた。明子にはそれを強《し》ひて問ひ糺《ただ》す必要もなかつた。一つの事が明子の眼にはつきりしてゐた。それは村瀬が遅れ走《ば》せながら、彼等三人の場面に駈《か》け上るべく何かに鞭《むち》うたれてゐたことである。嵐は三人の上に既に去つてゐた。三人の人間は、ある者は肉体に血紫色の菊の花を着け、ある者は情感の喪服に身をつつんで、それぞれに静穏な秋の日を愉《たの》しんでゐた。その今になつて、村瀬は狂熱の発作に囚《とら》はれた人のやうに取乱してその伝説の中へ、もう廻転し去つてゐる伝説の中へ躍《おど》り込まうとしてゐたのだ。明子ははつきりそれを見た。
村瀬にやつて来たこの危機を見ながら、明子は妙に平静な気持だつた。彼女の歴《へ》て来た苦渋な疲労感が、まだ肉体の一隅に残つてゐて、それが彼女を賢く昂奮《こうふん》から遠ざからせてゐるやうだつた。明子の失はれない平静のなかで情感の炎がゆるやかに燃えつづけてゐた。彼女はもう一ぺん村瀬の肉体を桃色のラムプのやうに燃え立たせようと試みた。静かな桃色の炎のなかにこの青年を眠り込ませようと冀《こいねが》つた。彼女は以前にもまして熱い愛撫《あいぶ》を村瀬に与へた。
明子の優しい心遣ひにもかかはらず、村瀬の狂暴さはつのつて行つた。まるつきり手のつけられない子供のやうに彼は明子のちよつとした事にも反抗した。彼には近頃不眠の夜が続くらしかつた。その後での疲労しきつた睡眠の中で色々な夢を見るらしかつた。夢のことを彼はよく明子に話すやうになつた。だがどれも手足だけに切り離された夢で、大事なところになると彼は急いで菓子を匿《かく》す子供の狡猾《こうかつ》さを取戻した。
――さう、それだけだつたの。
明子がおだやかな言葉遣ひでいつも彼の未完成な夢の話に結末をつけてやつた。村瀬は意地の悪い刺笑を歯に浮べながら黙つてゐた。彼の症状は日ましに悪くなつて行つた。
或る日、明子は到頭《とうとう》決心して、村瀬を旅に連れ出した。彼は珍しく明子の提議には従つた。彼女と一緒に天の幼児もついて来た。
旅が終りに近づきかけた或る朝、村瀬が突然ホテルのベッドの上で喀血《かっけつ》した。
衝立《ついたて》の蔭《かげ》で朝の化粧をしてゐた明子は、彼の叫声《さけびごえ》に愕《おどろ》いて飛び出して来た。白いシイツに血が鋭く鮮紅の箭《や》を射てゐた。はじめ彼女は村瀬が何か鋭利な刃物で自殺をはかつたのだと信じた。
――コップ。コップ。
彼が咳《せ》き入つて叫んだ。明子が枕許《まくらもと》のコップを口に当てがつてやると彼は待ち兼ねたやうに二度目の多量の喀血《かっけつ》をした。血がコップを溢《あふ》れて明子の手の甲を汚した。血は皮膚の脂肪にはじかれて斑《まだ》らに残つた。これで落着くかと彼女は思つた。明子には先《ま》づこの血に満ちたコップをどう処置するかが非常に重要なことに考へられて、ぢつとそれを握りしめてゐた。
しかし第三の発作が起つた。村瀬が胸をのめらせて枕に縋《すが》りついた。明子は突嗟《とっさ》に自分の両手で吐かれる血を受けた。彼女は血だらけになつた両手を村瀬の口に押しつけながら、顔すれすれに近づけてささやいた。涙が冷たく蒼《あお》ざめた頬《ほお》に散つた。
――どうしたの、一体。
今度は比較的量は少なかつたが、それでも両手の窩《あな》をほとんど満《みた》した。それでやつと病人は落着いたやうだつた。彼女は洗面台へ手を洗ひに立つた。水の音を聞くと村瀬はむつくりと半身をもたげた。彼女には手を浄《きよ》めるひまもなかつた。
――何です。どうするの。動いちやいけません。
――あれを、あれを取るんです。
村瀬が歯をくひしばつてやつと言つた。彼の片手は壁の棚に達してゐた。
――そんな事なら私がして上げます。あなたはそつとして居なくちや駄目《だめ》よ。
明子が遮《さえぎ》らうとしたとき、村瀬の手は案外|脆《もろ》くがくりと垂れた。がそれと、棚から一冊の鼠《ねずみ》色の本が頁《ページ》を飜《ひるがえ》してベッドに伏《ふ》さつて落ちたのとは全く同時だつた。村瀬はすばやくその本を掴《つか》んでゐた。
――これなんです。
彼が不気味に顔を曲げて笑はうとした。
――何、それは?
――これに書いてあるんです。それが長い間僕を苦しめてゐたんです。しかし、やつと解つた。やつぱり僕だつたのだ。
明子は伏さつた本の表紙に眼を走らせた。そこに伊曾の名が刷つてあつた。とすれば、それは伊曾の飜訳《ほんやく》で近ごろ出版された或るイギリスの新しい作家の小説に異《ちが》ひなかつた。村瀬がこの鼠色の部厚な本をよく抱へてゐるのには明子も気がついてゐた。が、それが伊曾の本だつたことは、彼女は今はじめて知つた。彼が譫言《うわごと》のやうに言ひ続けてゐた。
――頁の折つてある処《ところ》を開けて御覧なさい。そこに黝《くろ》い球のことが書いてあるでせう。黝い球つて毒薬なんです。それを僕が呑《の》むか、あなたが呑むか、どつちかに決つてゐたんです。が、やつぱり僕だつた。今やつと解つた。
彼は力が尽きたやうにベッドに仰向《あおむ》けに倒れ落ちた。そして眼を閉ぢてしまつた。それに引き込まれて明子も椅子《いす》に沈んだ。勿論《もちろん》その本などには触つて見る気も起らなかつた。村瀬が子供つぽい仕草で彼女に匿《かく》してゐたものはこれだつた。彼はこの本の数行の活字を梯《はしご》にして、三人の伝説に攀《よ》ぢ登らうと一生懸命になつてゐたのだ。だが、どうして? 何のために? 明子はやはりそこに何か気味の悪いものの命令を嗅《か》ぎつけない訳には行かなかつた。それは或ひは伊曾の眼のやうでもあつた。そして一瞬間彼女は、全く久し振りで伊曾が単独で彼女の傍に来て坐《すわ》るのを見た。不気味に、音もなく。
彼女には纔《わず》かにその輪廓《りんかく》だけしか想像されずにゐた長い争闘によつて傷《きずつ》いた青年がそこに横《よこた》はつてゐた。彼女は憫《あわ》れむやうに青年の姿を改めて見直した。彼の胸ははだけて、寝衣の間から蒼《あお》ざめた皮膚が浮び上るやうに眺められた。次の瞬間、彼女は全く別のことを考へてゐた。長い間|推《お》し秘《かく》された一つの影響がこの時花さいたもののやうだつた。あたりが花の匂ひに満ちた。蒼ざめた天の幼児がそつと降りて来て、村瀬の皮膚に合体したのが見えた。幼児が成長して地上のものの姿でその肉体を明子の前に横たへたかの様だつた。彼女は、自分が村瀬を愛したのは幼児の蒼ざめた皮膚を愛するためにだつた事をはつきりと了解した。眼の前の青年の胸には二つの菊の花までが、その血紫色を黝《くろ》ずませて。……
やがて明子は立ち上つた。彼女は医者を呼ぶために壁のボタンを長く押し続けた。
底本:「日本幻想文学集成19 神西清」国書刊行会
1993(平成5)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「神西清全集」文治堂
1961(昭和36)年発行
初出:「作品」
1930(昭和5)年12月発行
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆、小林繁雄、Juki
2008年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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