青いポアン
神西清

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)綽名《あだな》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)不具|乃至《ないし》

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(例)屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》
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     第一部

 明子は学校でポアンといふ綽名《あだな》で通つてゐた。ポアンは点だ、また刺痛だ。同時にそれが、ポアント(尖《さき》、鋭い尖)も含めて表はしてゐることが学校仲間に黙契されてゐた。特に彼女の場合、それは青いポアンであつた。
 明子はポアンといふ名に自分の姿が彫り込まれてゐるのに同感した。のみならず、この綽名を発見した或る上級生に畏怖《いふ》に似た感情を抱かずには居られなかつた。同時に敵手ともして。
 ――あの子は硬い一つのポアンよ。
 その上級生が或るとき蒼《あお》ざめて学友に言つた。そして色については次の様に言ひ足した。
 ――しかも青いポアンだわ。
 学友たちはどうしてこの少女が蒼ざめたのか知らなかつた。しかしこの奇妙な綽名は鋭敏な嗅覚《きゅうかく》の少女たちの間にすばやく拡つて行つた。この符牒《ふちょう》の裏にポアント――鋭い尖、の意味を了解したのも彼等独特の鋭い感応がさせる業《わざ》にほかならなかつた。
 その郊外の日当りのいい学園には沢山《たくさん》の少女たちが、自らの神経によつてひなひなと瘠《や》せ細りながら咲いてゐた。彼らの触手が学園のあらゆる日だまりに青い電波のやうに顫《ふる》へてゐた。その少女たちが蕁麻《いらくさ》の明子をどうして嗅《か》ぎつけずにゐよう。彼女らの或る者は嗅ぎつけない前に、この蕁麻に皮膚を破られて痛々しく貧血質の血を流した。
 明子は畸形《きけい》的に早い年齢に或る中年の男と肉体的経験を有《も》つてゐた。彼女自身にとつては全く性的衝動なしに為《な》し遂《と》げられたこの偶発事件は、彼女を肉体的にではなしに、精神的にのみ刺戟《しげき》したかの様であつた。混血の少女たちによく見られる蒼《あお》ざめた痿黄病《いおうびょう》的な症状が彼女を苦しめはじめた。とぎ澄された彼女の神経は容赦なく彼女自身のうちに他の少女たちと異つた要素や境遇を露《あら》はにした。神経は残酷なやり方で生理を堰《せ》きとめてしまつた。少女たちが瘠せ細りながらも神経がやや脂肪づき、兎《と》に角《かく》卯薔薇《うばら》ほどの花になつて咲く年齢になつても、明子だけは依然色を失《な》くした蕁麻《いらくさ》として残つた。これには更に一つの理由として、彼女の心臓の弱さを附け加へることが出来る。
 この不思議な退化をなしつつある少女は一つの稀《まれ》な才能を示すやうに見えた。それは彼女の素描にあらはれる特殊な線の感じに於《おい》て。素描の時間に助手の仕事をつとめることになつてゐた或る上級生が、明子のこの才能を愛した。彼女は明子を画家伊曾に紹介した。伊曾にとつてその上級生は画《え》の弟子であり、また情婦たちの一人でもあつた。
 結果は思ひがけなかつた。伊曾を中心とする事件に於て、その上級生は明子のため硬度のより高い宝石と一緒の袋で遠い路《みち》を運ばれた黄玉《トパアズ》のやうに散々に傷《きずつ》いた。その挙句《あげく》、明子はこの上級生を棄《す》てた。
 青いポアンといふ綽名《あだな》がこの少女の口から漏《も》れ、一群の少女たちの間に拡つたのはそれから間もないことだつた。その上級生の名は劉子《りゅうこ》といつた。
 伊曾は実にさまざまの女を知つてゐた。女たちが彼の庭の向日葵《ひまわり》のやうに、彼の皮膚を黄色い花粉で一ぱいにしてゐた。彼は飽かなかつた。伊曾は野蛮な胸を有つてゐた。
 実に多くの女たちが彼の周囲には群《むらが》つてゐた。彼はもともと卑しい心の持主ではなかつたから、自ら少しは人のいい驚きを感じてゐたのに異《ちが》ひないのだが、しかも片つぱしから機械的な成功を収めて行つた。それは昆虫たちにとつて地獄である南方の或る食虫花を思はせる行為だつた。
 数多い伊曾の情婦たち――自ら甘んじて伊曾の腕に黄色い肉体を投じたこれらの女たちのうちで、劉子だけは謬《あやま》つて伊曾に愛された女性と謂《い》ふべきであつた。つまり伊曾が劉子を愛したのは少女としてより寧《むし》ろ少年としてであつた。ただ若い女性の性的知識の不足が、この伊曾の愛し方の異ひを彼女自身に悟らせなかつたばかりである。それにせよ結果は同じことだつた。劉子はアポロの鉄の輪投げの遊戯のため額《ひたい》から血を流して花に化したヒヤシンスのやうに、最後には伊曾によつて頸《くび》に血を噴くことになり、自らの少年であることを証明しなければならなかつた、だがこれは少し後の話である。
 はじめ伊曾は、幾分不良性のある令嬢といふ注意がき附きで或る友人から劉子を紹介された。これは伊曾のやうな男にとつては実に滑稽《こっけい》な注意であつたに異《ちが》ひない。彼はこの注意がきの底に、聡明さによつて結婚前の暇をたまらなく持て余してゐる、一人の少女を想像せずには居られなかつた。
 彼は劉子に会つた。意外なことに、彼は劉子の智によつて磨かれた容姿の端麗さに、彼には不似合なほどの強い驚異を感じた。その端麗さは彼の想像を知らず知らずレカミエ夫人の方へ牽《ひ》きずつて行つた。
 一体伊曾は画家には風変りなくらゐ歴史や自然科学に凝る男で、実に雑多な知識を彼一流の明晢《めいせき》な方法でその脳襞に蓄積してゐた。彼の画《え》がこれらの知識によつて頭脳的に構成されたものであることは事実だつた。この様にして彼は、ルイ王朝の一つの秘密についても知つてゐた。それはレカミエ夫人がその端麗無比な容姿を裏切つて、性的に一種の不具だつた事実である。この知識が彼に禍《わざわい》した。
 彼の獣性は半ば惰力によつて回転をはじめてゐた。彼は劉子の端麗さに総《すべ》ての野蛮人に共通な或る恐怖に似た感情を抱きながら、しかも彼女を、眠り込んだまま彼の××に攀《よ》ぢ登るあらゆる少女並に扱つたのである。彼は機械的に彼女を××××誘つた。ところが劉子は醒《さ》めたままで×××登つた。反対に眠り込む状態に置かれたのは伊曾である。劉子の端麗さはその程度にまで高かつた。
 伊曾は劉子を経験した。けれど彼女を犯し得なかつた。彼は劉子にレカミエ夫人と全く同じの不具を発見したのである。
 これは何であらう! 容姿の相似が肉体の同じ不具に根ざしてゐようとは。流石《さすが》の伊曾もそんな学説までは知らなかつた。明らかにこれは偶然であつた。この偶然が伊曾を混乱させた。彼は習慣に甘やかされ眠り込んだ意識の状態から急に呼び起された。すべてが急速に転廻し、彼は一時あらゆる自己の見解を奪はれた。これは天罰に近いものだつた。
 が、間もなく一つの奇蹟《きせき》が行はれはじめてゐた。不具の故に伊曾は劉子に牽《ひ》かれるのを感じはじめたのである。劉子の場合、その性的不具は一つの完成のやうに見えた。
 全く劉子は愕《おどろ》くべき一つの完成であつた。彼女は柔軟や叡智《えいち》や健康などのあらゆる女性の美徳を典型的に一身に具現しながら、しかもそれらの衰褪《すいたい》から全く免れてゐる異常な少女に異ひなかつた。美の脆弱《ぜいじゃく》さが彼女には欠けてゐた。その不具によつて、劉子のは象牙《ぞうげ》の彫像のやうに永遠に磨滅することのない美であつた。これは永遠の不具|乃至《ないし》は完成であつた。総ての女性はその美の脆弱さによつて男性の感情の弱さにつけ入る。が劉子の場合、彼女はその美の硬さによつて伊曾の強さにつけ入つたと言ふべきだらう。彼は劉子を驚異した。彼は新たな一つの意識に眼ざめた幼児の輝かしさで彼女を見た。全く別の情欲が彼を囚《とら》へてゐた。レカミエ夫人の秘密についての彼の法医学がかつた知識が彼の劉子への愛慕を不思議に聖化した。

 彼等は主に朝の時間、外苑の透明な空気の中で会ふことにしてゐた。劉子は彼女の家に近い小さな陸橋を渡つて来た。伊曾はその反対側の赤|煉瓦《れんが》の兵営の蔭を、紫色に染まりながら大股《おおまた》に歩いてやつて来た。そして大抵は先に来て、青いベンチの前の砂利《じゃり》にパラソルの尖《さき》で何かの形を描きながら、しかも注意ぶかくあたりを警戒してゐるらしい彼女を発見した。
 芝生の植込に彼は遠くから劉子の姿を見つけるのだつた。たしかに跫音《あしおと》はそれと聞えるに異《ちが》ひない距離になつても、彼女はその端麗な姿勢を決して崩さうとしなかつた。しつかりした跫音が彼女の真前《まんまえ》にとまるとはじめて劉子は顔を上げて、きつぱりした態度で伊曾をまともに視《み》た。その眸《ひとみ》は殆《ほとん》ど彼等の恋愛を詰問するかの様に智によつて澄みかへつてゐた。
 伊曾は外苑の朝の光のなかに彼女を置くことを愛した。朝の光線は次第に強まる輝きにもかかはらず、どこかに軽微な暗灰色を蔵してゐた。これが彼女の皮膚の明晢《めいせき》さに或る潤《うれ》ひを与へる様に思はれた。彼等は並んでベンチに腰をおろした。伊曾は強い香気を嗅《か》いだ。しかし何の温度も感じなかつた。これは他の女たちによつて彼が曾《かつ》て経験したことのない不思議な現象だつた。彼は劉子の白い肉体を人並以上に温い血がめぐつてゐるのを直接触れて知つてゐた。が、彼女の体温はその皮膚の外には全然発散されないものの様だつた。それは彼女自身の衣服にさへも移らないかの如《ごと》く見えた。彼女の衣服は朝の爽《さわ》やかな風のなかでいつも実に端正であつた。伊曾は彼女に、つひに何ものをも失ふことのない女性を見た。
 或る日、やはりその様な時間に、劉子が伊曾に言つた。
 ――女学部の五年に不思議な線を描く子がゐるのよ。不思議なと言つて、何だかその子の性格にも病的な明るさが見えるの。
 話は伊曾が別のことを考へてゐたので、そのまま断たれた。彼等が別れるとき、劉子はパラソルをひらいて立ち上りながら、又急に思ひ出した様に早口に言つた。
 ――さつきお話しした子、明子さんて言ふの。自分でもあなたにデッサンを見て貰《もら》ひたいらしいから、いつかそのうち伺はせてもいい? 眼鏡《めがね》をかけた弱さうな子だから、気に入らないかも知れないけど。
 伊曾は別に興味も感じなかつた。寧《むし》ろ何故《なぜ》劉子がその子のことを二度も言ひ出したのか不思議に感じさへした。

 やがて或る土曜日の朝、明子が一人で伊曾のアトリエを訪れた。彼女は丁度《ちょうど》奥の窓から額際《ひたいぎわ》に落ちるキラキラした朝の日光《ひかげ》を眩《まぶ》しさうに眼を顰《しか》めながら、閾《しきい》のうへに爪立《つまだ》つやうにして黒い外套《がいとう》を脱いだ。すると無邪気な濃紺のジャンパアの胸もとにポプリンの上衣《うわぎ》がはみ出て、まるで乱れた花のやうに匂つてゐるのがあらはれた。少女は素足の脛《すね》を幾分寒さうに伸《のば》しながら、奥まつた一隅に朝着のまま立つてゐる伊曾の方へ臆《おく》した様子もなく進んで行つた。
 ――御免なさい、お兄様。私たうとう来てしまひましたの。劉子姉さまが来てもいいつて仰言《おっしゃ》つたものですから。
 少女は伊曾と向ひ合つて立つたとき、かう言つてちよつと口を綻《ほころ》ばせて憂鬱《ゆううつ》な笑ひを見せた。伊曾はそこからみそつ歯がのぞきはしまいかと気遣つた。彼女は、少し背伸びをしてゐるやうに見えた。蒼白《あおじろ》い、光の鈍い顔だつた。縁の無い近眼鏡のレンズだけが、滑らかな光を彼女の顔に漾《ただよ》はせて、妙に大人びた表情を生み出してゐた。伊曾は不調和な印象を受け取つた。
 不調和は随所に見出《みいだ》された。第一、お兄様といふ呼掛けからして幾分伊曾を戸迷ひさせるものだつた。
 ――この少女は親しくもない男を習慣的にかう呼ぶ癖があるのか。それとも一応は理性で濾過《ろか》して
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