、つまり劉子姉さまといふ呼《よび》かけと対照させてさう呼ぶことに決めて来たのだらうか。
 伊曾は知らず知らず明子を点検するやうな態度に陥りながら、こんな事を思ひ惑つてゐた。後者とすれば、口調に自分と劉子の関係を忖度《そんたく》した様な態《わざ》とらしさも見えない所がをかしい。やはり前者に異《ちが》ひあるまい。……しかし、少女は伊曾の沈黙を訝《いぶか》るやうな眼の色を見せてこの時彼を見上げてゐた。彼は何か言はなければならなくなつた。
 ――明子さん、あなたは僕に画《え》を見せに来たのでせう。
 成るべく優しい口調にならうとした余勢でそれが子供に対する大人の話し掛けに響いたのに気づいて伊曾ははつとした。だが少女は敏捷《びんしょう》にそれを利用して、子供つぽい口調で話しはじめてゐた。
 ――劉子姉さまはさう仰言つたの。でも本当はそれはどうでもいいことだつたのよ。ただお兄さまにうまくお眼にかかれれば。……でも、何だか悪いやうな気がするから、やつぱり見て戴《いただ》くわ。私の画つて、これ。手当り次第引つぱり出して来ましたの。
 明子は狡《ずる》さうな笑ひを一瞬見せながら、三枚の素描を膝《ひざ》のうへの画板から抜き出して卓子の上に並べた。並べる指もやはり蒼ざめた光沢の鈍いものなのを伊曾は見た。彼女はいそいでそれを引込めた。伊曾は止むを得ず卓上を一瞥《いちべつ》した。三枚とも少女の裸体習作だつた。
 ――なぜ風景を持つて来なかつたんです。
 ――風景はわたくし嫌ひですから。
 ――ぢや、なぜ静物を、例へば花を……はじめから人体は無理ぢやないですか。
 ――わたくし花は下手なんです。
 こんなことを話しながら伊曾は次第に注意深く素描に見入つてゐた。
 ――これはモデルを使つたんですね。
 ――え、どれ?
 明子はのぞき込む様に首を伸《のば》した。その身体が不自然に揺れたやうに思へた。
 ――それ? まあ半分半分なの。本当を言ふと、それはわたくしのからだなんです。
 伊曾は少女の顔を凝視してゐた。明子の顔はこのとき一層|蒼《あお》ざめたやうに見え、その眼は殆《ほとん》ど睨《にら》むやうに彼を見返してゐた。明らかな反抗がそこに見られた。
 ――僕もさうだらうと思つた。が、どうして自分なんか描いたんです。
 ――鏡に映して。……あ! 何故《なぜ》と仰言《おっしゃ》つたの? だつて、いち番手近かなモデルぢやありませんこと? それに私は自分のからだが憎らしかつたのです。
 伊曾は真白な壁に衝《つ》き当つた様に感じた。

 若《も》し伊曾が明子の過去について知つて居たら、彼は或ひは不幸から救はれたかも知れない。だが彼は知らない。彼は引きずられて堕《お》ち込むほかはなかつた。
 その次、明子が伊曾を訪問したとき、彼女は目に見えて快活だつた。これは少くとも装つた快活ではない。強《し》ひて言へば、不自然な快活さだ。何かの理由で今まで堰《せ》かれてゐた快活の翼が急に眼醒《めざ》めたやうな。……伊曾は鋭い眸《ひとみ》で少女を見すゑながらさう直感した。
 明子は、今度は二三枚静物の素描を持つて来てゐた。だが彼女は壺《つぼ》を人体のやうに描いてゐた。彼女が言つた。
 ――わたくしの画《え》はお兄様の真似《まね》なのよ。どうしてこの前のときお兄様がその事を仰言らなかつたか、わたくし不思議な気がして帰りましたの。
 ――でも、そんな事言つたつて仕方がないからです。
 伊曾はむつつりした調子で答へた。実際、明子の素描の線が伊曾のそれの少女らしい模倣《もほう》に過ぎない事ぐらゐ彼はとつくに見てとつてゐた。けれど伊曾としては其処《そこ》に並々でない感受性が現はれてゐることにより多く気を取られてゐた。彼はこの秘密を解く方に殆《ほとん》ど全部の注意を向けてゐたのだ。
 急に明子が声を立てて笑ひ出した。今まで彼女につきまとつてゐた憂鬱《ゆううつ》さが消えて、はじめて丸やかな女の肉声をその笑《わらい》に聴くやうに伊曾は思つた。
 ――何故急にそんなにをかしくなつたんです。
 ――お憤《おこ》りになつちやいや。本当は真似ぢやないの。画といつたらわたくしお兄さまのしか知らないんですの。展覧会でもお兄さまの画しか見ないんです。べつにさう決めた訳でもないんですけど、自然さうなつちやつたんですもの。
 ――それでをかしいんですか。
 二人は思はず顔を見合つた。

 明子はその後もしげしげと伊曾のアトリエに通つて来た。少くとも素描を見て貰《もら》ひに来るのでないことは明かだつた。
 そのたび毎《ごと》に伊曾の眼に明子のあらゆる不調和がその度を強めて行つた。同時にその不調和な不思議な方法で次第に整理されて、二つの相反する極に吸ひ寄せられて行くやうに思へた。伊曾は心に分裂直前の生殖細胞のなかで染色体が二つの極に牽引され綺麗《きれい》な列に並ぶ状態を思ひ浮べた。彼は明子がそのうちいきなり彼の眼の前で黒と白の二つの要素に分身するのではないかとさへ思つた。彼は妙な恐怖に捉《とら》はれた。
 明子は確かに自分の肉体を投げやりにとり扱つてゐた。手の甲にも顔の皮膚にも、その蒼白《あおじろ》い鈍さを滑らかにするための少女らしい手入れの跡すらないことは明らかに見てとられた。彼女は自分の素足の脛《すね》を平気で伊曾の眼の前で組んで見せた。それはどう見ても美しいといふ批評の下せない足だつた。蒼白い彼女の足の形は、すらつとしてゐると言ふより寧《むし》ろ瘠《や》せてゐると言つた方が至当だつた。その十三歳の少女のやうな足にも、成長の情感が仄《ほの》かにあらはれはじめてゐるのは争はれなかつた。にもかかはらず、明子は足を露《あら》はに晒《さら》すことに何の羞恥《しゅうち》も示さなかつた。自分の皮膚を棄《す》てて顧みないやうな無関心さがあつた。或ひはそれを伊曾に、全く別の事にいつも気を取られてゐるといふ風にも見えた。
 皮膚に対する彼女の態度とはまるで反対に、明子は自分の心は実に大切さうに包みかくしてゐた。伊曾にはそれが堪《たま》らなくもどかしかつた。
 或る時、伊曾は明子の咽喉《のど》もとの皮膚の白さを凝視してゐた。そこは彼女が何かを熱心に話してゐたので絶えず動いてゐた。伊曾の眼には、彼女がやはり投げやりな調子でブロオチを低すぎる位置に留めてゐたため開いた胸の皮膚の一部もうつつてゐた。その寧《むし》ろ骨立つた胸の部分にも成長の影は見逃せなかつた。謎《なぞ》はその部分に比較的はつきりと顕《あらわ》れてゐるやうに伊曾は思つた。彼は執拗《しつよう》に凝視を続けてゐた。明子が彼の視線の方向に気づいてゐることは疑《うたがい》もなかつた。伊曾はその効果を待つた。彼女はしかし子供つぽい調子でやつぱり何か饒舌《しゃべ》り続けてゐた。それがどんな内容を持つてゐるのか伊曾は全く捉《とら》へてゐなかつた。彼は自分の耳が空洞《うつろ》になつたのをぼんやり感じながら、何物かを待ち続けた。だがつひに明子の巧みに包まれた心は皮膚面にあらはれては来なかつた。
 いつの間にか明子が話しをやめてゐた。伊曾は彼女の顔に茫然《ぼうぜん》と眼を移した。彼の眼に不用意な卑屈さが混つた。
 明子がそのとき、ぼんやりした彼の眼界の中心から彼を見てゐた。静かな薄笑ひをさへ浮べて。その表情のどこかに何か温かさの漂つてゐるのを伊曾は感じた。謎の温かさのやうでもあるし、また母性の温かさのやうでもあつた。
 伊曾はこの微笑にはどこかで会つたことのあるのに気がついた。屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》自分の夢のなかにまで現はれたこともある。自らの乱行に懶《ものう》く疲れはてた彼の夢の中で、この微笑は彼を柔《やさ》しく叱責《しっせき》した。あの微笑だ。彼はそれがモナ・リザの微笑であることに気づいた。
 彼は明子を発見した。
 数日ののち、明子は伊曾の長椅子《ながいす》の上にゐた。伊曾が明子に訊《き》いた。
 ――君はどうして自分のからだなんか描いたの?
 ――自分のからだが憎らしかつたからよ。
 瘠《や》せたモナ・リザは寧《むし》ろ快活に同じ答を与へた。

 丁度《ちょうど》その頃、劉子は女性らしい心遣ひから伊曾の肉体に明子の匂《におい》を嗅《か》ぎ知つて遠ざかつて行つた。蒼《あお》ざめて、彼女は明子が青いポアンとして、自分の歴史に一つの句読点を打つたのをさとつた。

     第二部

 黄に透く秋風が彼女の裳《もすそ》をくぐり抜けて遠慮なく皮膚を流れた。明子はその秋自分の皮膚が非常に薄くなつたのを感じた。
 爪紅《つまべに》のやうに、しかしもつと情感的な丹紅《たんこう》を漲《みなぎ》らせながら、ピンと張りきつた彼女の腹部の皮膚が、その印象がきびしく自らの眼にあざやかだつた。更に日を歴《へ》ると、皮膚は薄膜のやうに透き徹《とお》りはじめた。学校の実験室で見た繭《まゆ》の透き徹《とお》りを思はせた。明子はねばねばした幼児の四肢がそこに透いて見えるのを想像した。
 それに伴《つ》れて、彼女の内心から搾《し》め出される膏脂《こうし》が皮膚につややかさを流した。彼女の皮膚が生れてはじめての不思議な滑らかさを有《も》つた。処女が母性の肉体に花咲いた様だつた。明子は自分の生理の美しさに驚嘆した。それは全く罪悪の感情には遠いものだつた。
 その脂質の爪紅色が今は皮膚の底に眠り込んでしまつてゐた。すべては曇つた日の白つぽい光に似た。彼女の内心の膏脂は涸《か》れはてたもののやうに見えた。明子は永遠に未完成な母親として残された。腹部の皮膚はやはり薄いままに残つた。悲しい薄さだつた。その薄さを、黄に透く秋風が流れた。
 明子の皮膚をそんな処女の豊富さにまで張りきらせた幼児は、母体の心臓を死から救ふために、白い影になつて医者の秘密なポケットにすべり落ちた。すくなくも医者はすべり落ちたと信じた。が、彼は空《くう》を掴《つか》んだのである。その幼児がいつも宙有《ちゅうう》に浮いてゐた。神話のやうに奇妙な光景だつた。色|褪《あ》せた幼児がいつも明子の瞼《まぶた》に斜めの空間に浮いてゐた。
 明子は自分の歪《ゆが》められた母性と闘つた。母性と同時に処女が花咲いたかのやうであつた。もし母性の歪められた痕跡《こんせき》が彼女に残るのなら、処女の花もどうしてそのままに凋《しぼ》んでいいものだらうか。明子はこの神聖な特権に死にものぐるひで縋《すが》りついた。彼女の額《ひたい》には蒼白《あおじろ》い神聖さが百合《ゆり》の花を開いた。まだ恋愛は新たな気息を盛りかへさなければならなかつた。だが黄に透く秋風が遠慮なく彼女の皮膚を流れて、彼女のあらゆる花房を吹きちらした。皮膚にはもう少女らしい血行はなかつた。踏み荒された皮膚に感性の不透明さが日ましに拡《ひろが》つて行つた。彼女は盲目になつて行く自分を意識した。いつか明子は自分の皮膚に酸つぱい匂ひさへ発見してゐた。
 彼女は黒い靴下を椅子《いす》の傍に蛇《へび》のやうにうねうねさせて、窓ぎはに立つた。ひだの無い裳《もすそ》が明子の腿《もも》の線をふとぶとと描いた。彼女は肉体だけで立つてゐる様に見えた。疲れて。
 明子は幼児の幻影を払ひ退《の》けようとして幾度も手のひらを瞼《まぶた》に斜めの空間に振つた。しかし彼女の手は空しく冷え冷えした秋の風を切つた。ときに、彼女は自分の手が幼児を透《とお》すあたりにほの温に触感を手のひらに感じることがあつた。
 彼女が嬰児《えいじ》の形の代りに幼児を空間に見たのは、彼女が未完成の母親だつたからだ。幼児は幾ヶ月かを地上にすごしたかのやうな皮膚を有《も》つてゐた。明子のからだが恢復《かいふく》するにしたがつてこの幼児の幻影も次第に丸やかな完成を見せた。それは憂鬱《ゆううつ》症のあらはれではなかつた。それは寧《むし》ろ母性のふくよかな成長として彼女に影響するやうに見えた。

 村瀬は明子が恢復しはじめた頃から再び手紙を寄越《よこ》すやうになつてゐた。明子の母はまだ過敏な警戒を彼女の身辺に怠《おこた》らずにゐたけれど、村瀬の手紙だけは
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