して黒い外套《がいとう》を脱いだ。すると無邪気な濃紺のジャンパアの胸もとにポプリンの上衣《うわぎ》がはみ出て、まるで乱れた花のやうに匂つてゐるのがあらはれた。少女は素足の脛《すね》を幾分寒さうに伸《のば》しながら、奥まつた一隅に朝着のまま立つてゐる伊曾の方へ臆《おく》した様子もなく進んで行つた。
 ――御免なさい、お兄様。私たうとう来てしまひましたの。劉子姉さまが来てもいいつて仰言《おっしゃ》つたものですから。
 少女は伊曾と向ひ合つて立つたとき、かう言つてちよつと口を綻《ほころ》ばせて憂鬱《ゆううつ》な笑ひを見せた。伊曾はそこからみそつ歯がのぞきはしまいかと気遣つた。彼女は、少し背伸びをしてゐるやうに見えた。蒼白《あおじろ》い、光の鈍い顔だつた。縁の無い近眼鏡のレンズだけが、滑らかな光を彼女の顔に漾《ただよ》はせて、妙に大人びた表情を生み出してゐた。伊曾は不調和な印象を受け取つた。
 不調和は随所に見出《みいだ》された。第一、お兄様といふ呼掛けからして幾分伊曾を戸迷ひさせるものだつた。
 ――この少女は親しくもない男を習慣的にかう呼ぶ癖があるのか。それとも一応は理性で濾過《ろか》して
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