るイギリスの新しい作家の小説に異《ちが》ひなかつた。村瀬がこの鼠色の部厚な本をよく抱へてゐるのには明子も気がついてゐた。が、それが伊曾の本だつたことは、彼女は今はじめて知つた。彼が譫言《うわごと》のやうに言ひ続けてゐた。
 ――頁の折つてある処《ところ》を開けて御覧なさい。そこに黝《くろ》い球のことが書いてあるでせう。黝い球つて毒薬なんです。それを僕が呑《の》むか、あなたが呑むか、どつちかに決つてゐたんです。が、やつぱり僕だつた。今やつと解つた。
 彼は力が尽きたやうにベッドに仰向《あおむ》けに倒れ落ちた。そして眼を閉ぢてしまつた。それに引き込まれて明子も椅子《いす》に沈んだ。勿論《もちろん》その本などには触つて見る気も起らなかつた。村瀬が子供つぽい仕草で彼女に匿《かく》してゐたものはこれだつた。彼はこの本の数行の活字を梯《はしご》にして、三人の伝説に攀《よ》ぢ登らうと一生懸命になつてゐたのだ。だが、どうして? 何のために? 明子はやはりそこに何か気味の悪いものの命令を嗅《か》ぎつけない訳には行かなかつた。それは或ひは伊曾の眼のやうでもあつた。そして一瞬間彼女は、全く久し振りで伊曾が単
前へ 次へ
全39ページ中37ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
神西 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング