窩《あな》をほとんど満《みた》した。それでやつと病人は落着いたやうだつた。彼女は洗面台へ手を洗ひに立つた。水の音を聞くと村瀬はむつくりと半身をもたげた。彼女には手を浄《きよ》めるひまもなかつた。
 ――何です。どうするの。動いちやいけません。
 ――あれを、あれを取るんです。
 村瀬が歯をくひしばつてやつと言つた。彼の片手は壁の棚に達してゐた。
 ――そんな事なら私がして上げます。あなたはそつとして居なくちや駄目《だめ》よ。
 明子が遮《さえぎ》らうとしたとき、村瀬の手は案外|脆《もろ》くがくりと垂れた。がそれと、棚から一冊の鼠《ねずみ》色の本が頁《ページ》を飜《ひるがえ》してベッドに伏《ふ》さつて落ちたのとは全く同時だつた。村瀬はすばやくその本を掴《つか》んでゐた。
 ――これなんです。
 彼が不気味に顔を曲げて笑はうとした。
 ――何、それは?
 ――これに書いてあるんです。それが長い間僕を苦しめてゐたんです。しかし、やつと解つた。やつぱり僕だつたのだ。
 明子は伏さつた本の表紙に眼を走らせた。そこに伊曾の名が刷つてあつた。とすれば、それは伊曾の飜訳《ほんやく》で近ごろ出版された或
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