一つの現実行動によつて置換され満足される或る微妙な一瞬の到来を見破つたのである。しばらく青年はためらひながら明子を熟視した。やがて村瀬の眼に青年らしい決断の色が閃《ひら》めいた。一台の自動車がそれを狙《ねら》つてゐたかのやうに音も無く滑り寄つて来た。明子は不思議な感動が自分の総身《そうみ》を熱くするのを感じた。あらゆる毛孔《けあな》が一時に息を吐いたやうだつた。明子はその秘密に気取《けど》られるのを嫌忌《けんき》するかの様にすばやく身を飜《ひるがえ》して自動車のステップを踏んだ。女は熱く湿つた呼吸をボアの羽根毛に埋め込んだ。

 明子は村瀬の肉体を知つた。彼女はレダのやうに身をもがいた。彼女の顔には、幼児に乳をふくませる母親の柔和さがあつた。ともすればそれは、反対に幼児から血を吸ひ取る残酷なものの微笑とも思はれた。

 その頃街に一つの噂《うわさ》があつた。
 第一の人が言つた。
 ――私は彼等が公園を歩いて行くのを見た。彼等は頸《くび》に菊の花を着けて誇らしげな様子だつた。
 第二の人が言つた。
 ――私は彼等が百貨店の陳列窓を覗《のぞ》いてゐるところを見掛けた。私が近づいて行くと男
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