温い涙であつたことも、人々は何も知らないのだ。……
恢復《かいふく》期にある明子はよくこの苦渋な回想を反芻《はんすう》した。彼女はそれに残酷な愉《たの》しさを味《あじわ》ふと言ふ風にさへ見えた。しかしこれらの光景の展開は彼女の恢復にしたがつて、次第に朦朧《もうろう》とした霧の向ふに消えて行つた。その霧の表面には幼児の蒼《あお》ざめた四肢が来て伸び横《よこた》はつた。
明子は家の中でさへ素足では歩かないやうになつてゐた。彼女は脚《あし》を厚い毛の靴下で包んだ。膏脂《こうし》の涸《か》れた彼女の皮膚は痛々しく秋風に堪へなかつた。いつか彼女の手の尖《さき》には化粧の匂ひが消えずに残りはじめた。ふくよかな化粧の香気が秋の進むにつれて次第に濃く彼女の身辺にまつはつた。彼女は自分の皮膚を包む癖を覚えてしまつた。
その頃になつて、ある日明子は村瀬に手紙を書いて彼を誘ひ出した。彼等は諜《しめ》し合はせて或る映画館の一隅で落ち合つた。三の宮駅で離されて以来はじめての会見だつた。
彼等が取つた席はエクランとはひどく斜めの位置にあつた。映画は始まつてゐた。彼等の席の周囲には黒い人影が混み合つて無言
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