衣服は朝の爽《さわ》やかな風のなかでいつも実に端正であつた。伊曾は彼女に、つひに何ものをも失ふことのない女性を見た。
 或る日、やはりその様な時間に、劉子が伊曾に言つた。
 ――女学部の五年に不思議な線を描く子がゐるのよ。不思議なと言つて、何だかその子の性格にも病的な明るさが見えるの。
 話は伊曾が別のことを考へてゐたので、そのまま断たれた。彼等が別れるとき、劉子はパラソルをひらいて立ち上りながら、又急に思ひ出した様に早口に言つた。
 ――さつきお話しした子、明子さんて言ふの。自分でもあなたにデッサンを見て貰《もら》ひたいらしいから、いつかそのうち伺はせてもいい? 眼鏡《めがね》をかけた弱さうな子だから、気に入らないかも知れないけど。
 伊曾は別に興味も感じなかつた。寧《むし》ろ何故《なぜ》劉子がその子のことを二度も言ひ出したのか不思議に感じさへした。

 やがて或る土曜日の朝、明子が一人で伊曾のアトリエを訪れた。彼女は丁度《ちょうど》奥の窓から額際《ひたいぎわ》に落ちるキラキラした朝の日光《ひかげ》を眩《まぶ》しさうに眼を顰《しか》めながら、閾《しきい》のうへに爪立《つまだ》つやうにして黒い外套《がいとう》を脱いだ。すると無邪気な濃紺のジャンパアの胸もとにポプリンの上衣《うわぎ》がはみ出て、まるで乱れた花のやうに匂つてゐるのがあらはれた。少女は素足の脛《すね》を幾分寒さうに伸《のば》しながら、奥まつた一隅に朝着のまま立つてゐる伊曾の方へ臆《おく》した様子もなく進んで行つた。
 ――御免なさい、お兄様。私たうとう来てしまひましたの。劉子姉さまが来てもいいつて仰言《おっしゃ》つたものですから。
 少女は伊曾と向ひ合つて立つたとき、かう言つてちよつと口を綻《ほころ》ばせて憂鬱《ゆううつ》な笑ひを見せた。伊曾はそこからみそつ歯がのぞきはしまいかと気遣つた。彼女は、少し背伸びをしてゐるやうに見えた。蒼白《あおじろ》い、光の鈍い顔だつた。縁の無い近眼鏡のレンズだけが、滑らかな光を彼女の顔に漾《ただよ》はせて、妙に大人びた表情を生み出してゐた。伊曾は不調和な印象を受け取つた。
 不調和は随所に見出《みいだ》された。第一、お兄様といふ呼掛けからして幾分伊曾を戸迷ひさせるものだつた。
 ――この少女は親しくもない男を習慣的にかう呼ぶ癖があるのか。それとも一応は理性で濾過《ろか》して
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