温い涙であつたことも、人々は何も知らないのだ。……
恢復《かいふく》期にある明子はよくこの苦渋な回想を反芻《はんすう》した。彼女はそれに残酷な愉《たの》しさを味《あじわ》ふと言ふ風にさへ見えた。しかしこれらの光景の展開は彼女の恢復にしたがつて、次第に朦朧《もうろう》とした霧の向ふに消えて行つた。その霧の表面には幼児の蒼《あお》ざめた四肢が来て伸び横《よこた》はつた。
明子は家の中でさへ素足では歩かないやうになつてゐた。彼女は脚《あし》を厚い毛の靴下で包んだ。膏脂《こうし》の涸《か》れた彼女の皮膚は痛々しく秋風に堪へなかつた。いつか彼女の手の尖《さき》には化粧の匂ひが消えずに残りはじめた。ふくよかな化粧の香気が秋の進むにつれて次第に濃く彼女の身辺にまつはつた。彼女は自分の皮膚を包む癖を覚えてしまつた。
その頃になつて、ある日明子は村瀬に手紙を書いて彼を誘ひ出した。彼等は諜《しめ》し合はせて或る映画館の一隅で落ち合つた。三の宮駅で離されて以来はじめての会見だつた。
彼等が取つた席はエクランとはひどく斜めの位置にあつた。映画は始まつてゐた。彼等の席の周囲には黒い人影が混み合つて無言のまま前後左右に揺れ動いてゐた。彼等も黙つてそれらの影に加はつた。何か古ぼけた曲馬団の悲劇がエクランを流れてゐた。道化役の白い衣裳《いしょう》が不恰好《ぶかっこう》に歪《ゆが》んで吊《つる》されたやうにエクランの中心を横切つたりした。その白ぼけた光がある時はエクラン一ぱいに膨らみ、客席の人の顔を鈍く照し出すのだつた。明子はそのたびに隣の村瀬の方をぬすみ見した。微光はすぐに消えて、彼女は青年の表情を読むひまはなかつた。何時《いつ》のまにか明子は、きつちりと黒の手袋をはめた自分の手の中に村瀬の手を握りしめてゐた。村瀬はぼんやりと映画の流れに視線をまかせてゐる風に見えた。
彼女は熱い吐息をボアの羽根毛のなかに漏《もら》した。彼女に何物かが潤《うる》んで見えた。何処《どこ》かに生温い涙の匂ひを嗅《か》ぐやうに思つた。明子は眼をつぶつて頸《くび》を縮め、ボアの羽根毛のなか深く顔を埋め込んだ。吐息に蒸されて滴《しずく》を結んだ羽根毛がつめたく鼻のあたりを湿《しめ》した。それが情感の遣《や》り場のない涙の感触に肖《に》てゐたのかも知れない。エクランでは銀色に溶け入るやうな脚をした一人の踊子が、乱れ
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