過ぎないことがはつきりと感じられた。劉子の呪《のろ》ひにかかつて、実際自分が硬い一つのポアンにかじかん[#「かじかん」に傍点]でしまつたやうな気がした。
村瀬が明子の周囲に現はれはじめたのは丁度《ちょうど》こんな争闘の前後にだつた。彼女は或る会館のプールのふちで、この青年が彼女に近づきたがつてゐるのを発見した。明子は青年の姿を藍《あい》色の層をした水に映して眺めたとき、鼻を鳴らして慕ひ寄る一匹の小犬を聯想《れんそう》した。実際小犬のやうに青年は潔白だつた。だが明子はこの青年に、彼が欲しがつてゐる肉体は与へなかつた。その一歩手まへのものは投げるやうにして早く与へてゐたけれど。青年は従順に彼女の後に従つて来た。明子の女が期待を失しながらも次第に眼を開きかけてゐたのである。
一方危機は明子の心臓の昂進《こうしん》とともに確実な足どりで近づきつつあつた。それは主として伊曾に起つた新たな欲望に因《よ》るものだつた。伊曾と劉子は日ごとに白い死の方へと堕《お》ちて行つた。
白い格闘が果てしなく繰返され、つひにある時明子はその最後の徴《しる》しを見た様に思つた。不幸なことに、全く同時に彼女は心臓の激しい発作で卒倒しかけた。突然一つの腕が彼女を支へた。村瀬の腕だつた。明子は村瀬と一つ影になつて失踪《しっそう》した。白痴的なこの最後の芝居が、一つの決定を促《うなが》すことになつた。彼等の失踪の翌夜、伊曾と劉子の情死が行はれたのである。伊曾の手で鋭いメスの一撃が劉子の頸部《けいぶ》に加へられた。劉子の端麗な容貌《ようぼう》が音もなく彼の腕の中で失心して行つた。次《つ》いで伊曾は自らの頸部を切り裂いた。
失踪した村瀬と明子は三の宮駅で家からの追手に発見された。彼等は色を失つた宝石だつた。二人は別々の列車で東京に連れ帰された。途中の寝台車のなかで、明子は自らの肉体の中に或る不思議な他の者の動揺を感じた。胎動《たいどう》に異ひなかつた。それに伴《つ》れて彼女の心臓も思ひ出したやうに苦痛を訴へはじめた。明子はこの時さめざめと泣いた。人々は彼女の不幸を哀れんだ。[#「哀れんだ。」は底本では「哀れんだ」]
人々は何も知らなかつたのだ。明子がはじめての母性の感傷に囚《とら》はれて泣いたのであることも、心臓の苦痛はただ彼女の泣声を昂《たか》めただけに過ぎないことも、彼女の涙が寧《むし》ろ幸福な
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