子の皮膚をそんな処女の豊富さにまで張りきらせた幼児は、母体の心臓を死から救ふために、白い影になつて医者の秘密なポケットにすべり落ちた。すくなくも医者はすべり落ちたと信じた。が、彼は空《くう》を掴《つか》んだのである。その幼児がいつも宙有《ちゅうう》に浮いてゐた。神話のやうに奇妙な光景だつた。色|褪《あ》せた幼児がいつも明子の瞼《まぶた》に斜めの空間に浮いてゐた。
 明子は自分の歪《ゆが》められた母性と闘つた。母性と同時に処女が花咲いたかのやうであつた。もし母性の歪められた痕跡《こんせき》が彼女に残るのなら、処女の花もどうしてそのままに凋《しぼ》んでいいものだらうか。明子はこの神聖な特権に死にものぐるひで縋《すが》りついた。彼女の額《ひたい》には蒼白《あおじろ》い神聖さが百合《ゆり》の花を開いた。まだ恋愛は新たな気息を盛りかへさなければならなかつた。だが黄に透く秋風が遠慮なく彼女の皮膚を流れて、彼女のあらゆる花房を吹きちらした。皮膚にはもう少女らしい血行はなかつた。踏み荒された皮膚に感性の不透明さが日ましに拡《ひろが》つて行つた。彼女は盲目になつて行く自分を意識した。いつか明子は自分の皮膚に酸つぱい匂ひさへ発見してゐた。
 彼女は黒い靴下を椅子《いす》の傍に蛇《へび》のやうにうねうねさせて、窓ぎはに立つた。ひだの無い裳《もすそ》が明子の腿《もも》の線をふとぶとと描いた。彼女は肉体だけで立つてゐる様に見えた。疲れて。
 明子は幼児の幻影を払ひ退《の》けようとして幾度も手のひらを瞼《まぶた》に斜めの空間に振つた。しかし彼女の手は空しく冷え冷えした秋の風を切つた。ときに、彼女は自分の手が幼児を透《とお》すあたりにほの温に触感を手のひらに感じることがあつた。
 彼女が嬰児《えいじ》の形の代りに幼児を空間に見たのは、彼女が未完成の母親だつたからだ。幼児は幾ヶ月かを地上にすごしたかのやうな皮膚を有《も》つてゐた。明子のからだが恢復《かいふく》するにしたがつてこの幼児の幻影も次第に丸やかな完成を見せた。それは憂鬱《ゆううつ》症のあらはれではなかつた。それは寧《むし》ろ母性のふくよかな成長として彼女に影響するやうに見えた。

 村瀬は明子が恢復しはじめた頃から再び手紙を寄越《よこ》すやうになつてゐた。明子の母はまだ過敏な警戒を彼女の身辺に怠《おこた》らずにゐたけれど、村瀬の手紙だけは
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