彼を見てゐた。静かな薄笑ひをさへ浮べて。その表情のどこかに何か温かさの漂つてゐるのを伊曾は感じた。謎の温かさのやうでもあるし、また母性の温かさのやうでもあつた。
 伊曾はこの微笑にはどこかで会つたことのあるのに気がついた。屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》自分の夢のなかにまで現はれたこともある。自らの乱行に懶《ものう》く疲れはてた彼の夢の中で、この微笑は彼を柔《やさ》しく叱責《しっせき》した。あの微笑だ。彼はそれがモナ・リザの微笑であることに気づいた。
 彼は明子を発見した。
 数日ののち、明子は伊曾の長椅子《ながいす》の上にゐた。伊曾が明子に訊《き》いた。
 ――君はどうして自分のからだなんか描いたの?
 ――自分のからだが憎らしかつたからよ。
 瘠《や》せたモナ・リザは寧《むし》ろ快活に同じ答を与へた。

 丁度《ちょうど》その頃、劉子は女性らしい心遣ひから伊曾の肉体に明子の匂《におい》を嗅《か》ぎ知つて遠ざかつて行つた。蒼《あお》ざめて、彼女は明子が青いポアンとして、自分の歴史に一つの句読点を打つたのをさとつた。

     第二部

 黄に透く秋風が彼女の裳《もすそ》をくぐり抜けて遠慮なく皮膚を流れた。明子はその秋自分の皮膚が非常に薄くなつたのを感じた。
 爪紅《つまべに》のやうに、しかしもつと情感的な丹紅《たんこう》を漲《みなぎ》らせながら、ピンと張りきつた彼女の腹部の皮膚が、その印象がきびしく自らの眼にあざやかだつた。更に日を歴《へ》ると、皮膚は薄膜のやうに透き徹《とお》りはじめた。学校の実験室で見た繭《まゆ》の透き徹《とお》りを思はせた。明子はねばねばした幼児の四肢がそこに透いて見えるのを想像した。
 それに伴《つ》れて、彼女の内心から搾《し》め出される膏脂《こうし》が皮膚につややかさを流した。彼女の皮膚が生れてはじめての不思議な滑らかさを有《も》つた。処女が母性の肉体に花咲いた様だつた。明子は自分の生理の美しさに驚嘆した。それは全く罪悪の感情には遠いものだつた。
 その脂質の爪紅色が今は皮膚の底に眠り込んでしまつてゐた。すべては曇つた日の白つぽい光に似た。彼女の内心の膏脂は涸《か》れはてたもののやうに見えた。明子は永遠に未完成な母親として残された。腹部の皮膚はやはり薄いままに残つた。悲しい薄さだつた。その薄さを、黄に透く秋風が流れた。
 明
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