手近かなモデルぢやありませんこと? それに私は自分のからだが憎らしかつたのです。
 伊曾は真白な壁に衝《つ》き当つた様に感じた。

 若《も》し伊曾が明子の過去について知つて居たら、彼は或ひは不幸から救はれたかも知れない。だが彼は知らない。彼は引きずられて堕《お》ち込むほかはなかつた。
 その次、明子が伊曾を訪問したとき、彼女は目に見えて快活だつた。これは少くとも装つた快活ではない。強《し》ひて言へば、不自然な快活さだ。何かの理由で今まで堰《せ》かれてゐた快活の翼が急に眼醒《めざ》めたやうな。……伊曾は鋭い眸《ひとみ》で少女を見すゑながらさう直感した。
 明子は、今度は二三枚静物の素描を持つて来てゐた。だが彼女は壺《つぼ》を人体のやうに描いてゐた。彼女が言つた。
 ――わたくしの画《え》はお兄様の真似《まね》なのよ。どうしてこの前のときお兄様がその事を仰言らなかつたか、わたくし不思議な気がして帰りましたの。
 ――でも、そんな事言つたつて仕方がないからです。
 伊曾はむつつりした調子で答へた。実際、明子の素描の線が伊曾のそれの少女らしい模倣《もほう》に過ぎない事ぐらゐ彼はとつくに見てとつてゐた。けれど伊曾としては其処《そこ》に並々でない感受性が現はれてゐることにより多く気を取られてゐた。彼はこの秘密を解く方に殆《ほとん》ど全部の注意を向けてゐたのだ。
 急に明子が声を立てて笑ひ出した。今まで彼女につきまとつてゐた憂鬱《ゆううつ》さが消えて、はじめて丸やかな女の肉声をその笑《わらい》に聴くやうに伊曾は思つた。
 ――何故急にそんなにをかしくなつたんです。
 ――お憤《おこ》りになつちやいや。本当は真似ぢやないの。画といつたらわたくしお兄さまのしか知らないんですの。展覧会でもお兄さまの画しか見ないんです。べつにさう決めた訳でもないんですけど、自然さうなつちやつたんですもの。
 ――それでをかしいんですか。
 二人は思はず顔を見合つた。

 明子はその後もしげしげと伊曾のアトリエに通つて来た。少くとも素描を見て貰《もら》ひに来るのでないことは明かだつた。
 そのたび毎《ごと》に伊曾の眼に明子のあらゆる不調和がその度を強めて行つた。同時にその不調和な不思議な方法で次第に整理されて、二つの相反する極に吸ひ寄せられて行くやうに思へた。伊曾は心に分裂直前の生殖細胞のなかで染色体が
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