ごく小量の分け前にしか過ぎないのだから。これらの疲労した川筋を通して一年に七千四百万貫の塵芥《じんかい》を吹き、六十万|石《ごく》の糞尿《ふんにょう》を棄《す》て、さらに八億立方|尺《しゃく》にも余る汚水を吐き出す此の巨大な怪獣の皮腺《ひせん》から漏《も》れる垢脂《こうし》に過ぎないのだから。……のみならず、この夥《おびただ》しい排泄《はいせつ》物の腐れた臭ひに半ばは埋《うも》れて一万二千の小舟が動き廻り、三万余りの男女がその中に「生きて」ゐるのを私たちは知つてゐる。私たちが殆《ほとん》ど忘れたままでゐる自分の蹠《あなうら》よりももつと低いところに。そして黄昏《たそがれ》が消えると街は彼女の鏡を力無く取り落すのである。街と川とは別々に、秘密に満ちた夜闇に陥つて行くのである。
大正十二年の罹災《りさい》によつて一時はその数を三分の一にも減じた水上生活者の群が、いつとは知れず再び元通りの数に近づかうとしてゐた頃の或る夏近くのことであるが、ステラと名づけられた一|隻《せき》の真白な快走船が隅田川の下流を中心にある仕事に従ふ様になつて、その際だつた姿態によつて他の舟々の眼を惹《ひ》いてゐた
前へ
次へ
全15ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
神西 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング