夜更け、ゴチック風の表飾りのある旅館の湿気《しけ》た寝台のうへには、滅びた恋の野辺の送りをするために、屍灰《しかい》さながらの味《あじわ》ひを互《たがい》の唇のうへになほも吸ひ合ふ恋人たちの横たはつてゐるのを。……何といふ頽廃《たいはい》、何といふ無気力と人は言ふであらう。然《しか》り、私もそれは知つてゐる。けれど、私たちが如何様《いかよう》に自分の住む此《こ》の近代の都市を誇称しようとも、そして昼夜のあらゆる時を通じて其処《そこ》に渦巻くどんな悪徳や鋭ぎ澄ました思想によつて昂奮《こうふん》し偽瞞《ぎまん》されてゐようとも、やはり私たちの都市の疲れてゐることは事実である。そして嘗《かつ》ては或る役所の吏《り》として夕暮から夜更けの川筋を巡邏《じゅんら》の軽舟に揺られて行つたことのある私にとつては、私が此《こ》の物語を始めた句はさほど私たちの都市東京にそぐはないものとも思へない。
 東京を流れる六十九筋の溝渠《ほりわり》や川の底から一年のあひだに浚渫《しゅんせつ》される泥土の量が二万立方坪にも近いといふ事実は大して人々を驚かすものではない。それは年老いた此の都市から泌《し》み出る老廃物の
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