いっかい》が定の真白い肩先にペッタリとへばり着いた。
花子は定の腕の中に仰向《あおむ》けに抱きかかへられたまま薄眼を開いてゐた。脹《は》れぼつたい唇が暗紫色に染まりその間から小さな舌の尖《さき》があらはれてゐた。定は裳《もすそ》をひき上げて花子の創痕《きずあと》をしらべた。並行して血を滲《にじ》ませた幾条かの打ち創のあるものはひそやかに血潮を吹いてゐた。定は静かに頭《こうべ》を垂れると次々にその創痕に唇を当てて行つた。その味《あじわ》ひは塩辛く彼の胸には苦艾《にがよもぎ》に似た悔恨が疼《うず》いた。しかし彼はその瞬間ごとに花子の薄眼のすきから誘惑に満ちた紫色の視線がほとばしり出るのを知らなかつた。滅びる前の最後の情欲の美しい燃え立ちが。
市立産院の燈火は終夜その黄いろな眼を開いてゐる。清潔な沢山《たくさん》の寝台の中には貧しい母親たちが彼女たちから奪はれて行つた産児への手振りを無駄《むだ》にガランとした空間に描いてゐる。母親たちの眼は力無く終夜閉ぢられてゐる。彼女たちの弱つた注意力はそれでも長い廊下を隔てた乳児院の物の気配へと絶えず張られてゐる。いまその廊下を一人の若い看護婦が足音も立てずに真直《まっすぐ》に産児院の方へと歩いて行く。彼女の横顔は尼僧の様に冷たい線を有《も》つてゐる。彼女は静かにノッブを廻して室内にあらはれる。可愛《かわい》らしい寝台の上には初生児たちがガーゼに包まれて一つづつ置いてある。女は腰をかがめて一つ一つを覗《のぞ》いてまはる。此《こ》の室《へや》の空気には生物学の標本室の匂《におい》がする。初生児は皮膚で呼吸する動物のやうにまるで音を立てない。看護婦は再びノッブを廻して次の室へとあらはれる。かすかに揺れ動いた風の気配に、壁にもたれて睡《やす》んでゐた若い保姆《ほぼ》の一人が眼をさまして立ち上る。二人の女は眼を見合はせ、さてさも物珍らしげに室内を見廻す。此の室の寝台は檻《おり》を思はせる。もう立ち上ることの出来る幼児たちが保姆を「あまり」妨げないために寝台は四囲に二尺ばかりの鉄柵を有つてゐるのである。幼児|等《ら》は昼間でもその檻から出ない。看護婦は第一の寝台に近づく。そのとき四番目の寝台から男の児《こ》が小さな幽霊のやうに起きあがる。彼はよろめきながら、昼間ぢゆうつかまり続けた鉄柵につかまつて立つてゐる。その眼は何も見てゐない。二人の
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