故障で、あらかじめ院長の在否を確かめることはできませんでしたが、まあ大抵はおいでだらうと高《たか》をくくつて行つたところ、あいにく院長は埼玉県とかの患者の招きで朝おそく出かけてお留守《るす》、帰りは早くて五時にはなるだらうとのことでした。G病院との電話の連絡は相変らずつかず、よつぽど出直さうかと思ひましたが、行つたり来たりするうちには三時間ぐらゐすぐ経《た》つてしまふ、それに院長のお帰りだつて案外早いことがないとも限らないと思ひ返し、千恵は畳じきの狭い待合室の片隅でとにかく待つてみることにしました。外科の待合室なんてあんまり気味のいいものではありません。もつとも悪性の伝染病の心配だけはまづ無いはずですけれど、頁《ページ》のまくれあがつた手垢《てあか》だらけの娯楽雑誌なんか、手にとるより先に虫酸《むしず》が走ります。こんなことなら文庫本でも持つて出るのだつたと後悔しても今さら追ひつきません。仕方なしに長|椅子《いす》の一ばん隅つこに小さくなつて、居眠りの真似《まね》でもしようとしたのですが、どうしたものか妙に患者が立てこんで、ざわつく人々の出はいりに眼をねむつてばかりもゐられません。そのうちに、仮はうたいの上へどす黒い血がにじんでゐるやうな患者も、いやでも二人三人と目につきます。そんなことで二三十分もたつたでせうか。千恵は例のHさんに声をかけられてしまつたのです。
奇遇でした。いいえ、むしろ悪運といつた方がいいかも知れません。Hさんはちよつとした破傷風《はしょうふう》で二三日前から休暇をとり、その病院へ通つてゐるのだといふ話でした。今しがた繃帯《ほうたい》を更《か》へてもらつたところださうで、なるほど左の指が三本ほど一緒に真新《まあた》らしい繃帯でゆはへてありました。
Hさんもこの奇遇には驚いたと見えます。暫《しばら》く話してゐるうちに、千恵が時間を持てあましてゐることを知ると、そのまにN会堂の中を案内してあげようと熱心に言ひはじめました。なるほどN会堂はすぐ近所なのでした。「それに、あんたにちよいと見せたいものもあるのよ」とHさんは言ひました。このあんたに[#「あんたに」に傍点]といふ言葉は、まるで雷のやうに千恵の耳を打ちました。……
「なぜですの? どうしてわたしに[#「わたしに」に傍点]ですの?」と、千恵は思はず言ひ返さうと身構へましたが、ふと思ひついてやめました。それは千恵の弱身からくる思ひすごしでした。Hさんは結局のところ好人物なのです。またもや怪談で千恵をおどかして、退屈しのぎをしようとしてゐるだけのことです。ほんとを言へば、千恵は手頃の案内人の見つかつたことが、むしろ嬉《うれ》しかつたのかも知れません。
外へ出ると、かなりの吹き降りになつてゐました。それが刻一刻とはげしくなるばかりで、やがてO町の交叉点からN会堂の方へのぼるだだつ広い鋪装《ほそう》道路にかかつた頃には、コウモリもまともには差してゐられないほどになりました。どうやら風向きも変つたらしく、北の空めがけてどす黒い鉛《なまり》いろの雲が、ひしめき上つてゆくのが見えました。そんな空を背景に、もうついそこに黒々と姿をあらはしてゐるN堂のドオムは、まるでゆらゆら揺れてゐるやうに見えました。千恵はさつきのHさんの言葉を思ひ出しました。「見せたいものもある[#「もある」に傍点]」なんて、一体なんのことなんだらう。……今度はさつきとは違つて、この変にぼやかした尻《し》つ尾《ぽ》の方が気になりました。「なあに、どうせHさんのことだ。ひよつとするとどこか柱のかげあたりに、例の血あぶらの染《し》みか何かがこびりついてゐでもして、それを千恵に自慢さうに見せてくれるぐらゐなところなのだらう。よし、今日はうんと平気なふりをしてやらう」……そんな妙なことを千恵は考へました。そのくせ胸の中はだんだん不安になつて行きました。
やがてHさんは見知らぬ横町へ折れました。するとすぐ会堂の裏門がありました。それまでもう何べんか会堂の構内をふらつき廻つてゐたくせに、千恵はそんなところに裏門のあることはつい知らずにゐました。白い門柱のあひだを通ると、そこはちよつとした谷間みたいな感じの一廓でした。両側には住宅風の小さな二階家が立ちならび、正面は幅のひろい切り立つやうな石の段々でした。その段々の上はすぐN堂の灰色のずしりと重たい胴体でした。もう大|円蓋《えんがい》は目に入らず、ただその寒ざむとした胴の灰色の壁だけが、のしかかるやうに聳《そび》えてゐるのでした。その谷間は風の吹きだまりになつてゐるらしく、雨に叩《たた》き落された柏《かしわ》や何かの大きな枯葉が、ところどころべつたり敷石に貼《は》りついてゐて、千恵は何べんも足を滑らせさうになりましたが(ほら、母さまもご存じのあの古いゴムの編上《
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