しいほど急調子に展開しはじめて、あざやかな場面が際限もなく繰りひろげられたやうです。今ではもう跡形もないはずのあの大磯の別荘の芝生を、やはり月夜なのでせう、はつきり見える姉さまの顔と並びあひながら、何やらしきりと口論しながら歩いてゐる場面が妙にはつきり思ひだされるだけで、あとはきれいに忘れてしまひました。
まあつまらない夢の話なんかやめませう。あくる朝――といつてもお午《ひる》ちかく起きると、千恵はそんな夢のことより、N会堂のことが気になつて気になつて仕方がありませんでした。千恵はそれまでN会堂はあの大きなドオムを遠目に眺めるだけで、一度も門内へはいつたことさへありませんでしたが、さうなるともう、あの聖堂のなかに何か容易ならぬ謎《なぞ》がひそんでゐるやうな気がしきりにしだして、矢も楯《たて》もたまらなくなりました。ところが産院の方は本館づとめとは違つて色々と雑用が多く、受持も育児室から産室、それから分娩《ぶんべん》室といふ工合《ぐあい》にぐるぐる廻るものですから、外出の機会がなかなかありません。それでもやつと何かの用事にかこつけて抜けだして、まるで息せき切つた思ひであの会堂に寄つてみました。午後だつたせゐか本堂の扉はしまつてゐましたが、構内にはちらほら学生などの影も見えたので、千恵も暫《しばら》く散歩のふりをしながら、本堂から小会堂のあたり、裏門の方にある庵室《あんしつ》のへんなどをぶらぶらしてみました。あの古島といふ青年をはじめて見かけたのはこの時でした。片手にバケツをさげて、庵室の横手からひよつくり姿を現はしたのです。かねてHさんから聞いてゐた人相書にそつくりでした。はつと思つた瞬間、眼が合つてしまひました。その眼のことは前にも書いた通りです。無精《ぶしょう》ひげの生えたやつれた顔は、案外血色がわるくはなく、何やら微笑のやうなものが浮んでゐました。瞬間おもはずキッと見つめた千恵の眼に、何か異様なものがあつたのでせう、――古島さんの両眼はぎらりと不気味に光りましたが、すぐまたつつましい伏眼《ふしめ》になつて、そのまますれ違つてしまひました。
ふしぎな焼けつくやうな印象でした。なぜ姉さまはあんな妙な人にすがりつきなんぞしたのだらう?……千恵は帰りの混んだ電車のなかで考へました。しかも「坊やなのね、坊やなのね!」などとまで口走つたといふではないか。そしてあの人のあのぎらつくやうな眼のなかを一心に覗《のぞ》きこんだといふではないか。つかのまの幻覚だつたのだらうか。……それにしても姉さまがあの瘠《や》せこけた小柄な古島さんをしつかり掴《つか》まへて、上からしげしげと覗きこんでゐる図を目に浮べてみると、妙に切ない、それでゐて何かしら笑ひだしたくなるやうな感じを、どうにもできないのでした。千恵はしだいにこつちまで頭が変になつてくるやうな気がしました。
二三日たつて、千恵はまたN会堂へ行きました。それからまた一度、もう一度。……帰りの電車のなかでは、もう決して足ぶみもしまいと決心するのですが、暫《しばら》くするとまた例の謎《なぞ》がだんだん膨《ふく》れあがつて、ついまたふらふらと誘ひ寄せられてしまふのです。古島さんには行会ふ時も行会はない時もありました。本堂の扉はまるでわざとのやうに、いつもぴつたり閉ぢてゐました。いいえ、一度だけ扉がひろびろと開け放されてゐたことがありましたが、その日は何かお葬式でもあるらしい様子で、黒の盛装をした外国人の男女が急がしさうに出たりはいつたりしてゐました。その外国人は、盛装をしてゐるため却《かえ》つて変に貧しさが目につくやうな人たちでした。千恵は暫く物珍らしさうに樹《こ》かげに立つて眺めてゐましたが、古島さんの姿はたうとう見かけませんでした。……
さうかうするうちに病院の実習期も終つて、千恵はまたG博士のお宅で起居することになりました。Hさんにはその後かけちがつて聖アグネス病院ではたうとう会はずじまひでした……。
………………………………………
さうです、母さま、いつそ本当に会はずじまひになつた方が、どれほどよかつたか知れないと思ひます。さうなれば千恵は、しぜん姉さまの消息からも遠のいて、やがて運命の波がふたたびめぐり会ふこともないくらゐ、遠く二人を隔ててくれたかも知れないのです。千恵もじつは内々それを願つてゐました。だのに結局きのふといふ日が来てしまつたのです。
きのふは朝からびしよびしよ降りの雨でした。おまけに季節はづれの生温い風がふいて、窓ガラスがすつかり曇つてしまふほどでした。お午《ひる》近くになつて突然、G博士は何か急な用事を思ひだしたと見え、分厚な封書を千恵に渡すと、すぐ神田O町のある外科病院へ行つて、院長さんの返事をもらつてくるやうに言ひつけました。雨降りの日によくある電話の
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