あみあげ》靴をはいてゐたのです――)やがて石段を登りかけようとして、二人は思はずあッと声を立ててしまひました。それは石段ではなくて滝だつたのです。
ふしぎな光景でした。水はものの四五|間《けん》もありさうな石段の幅ぜんたいにひろがつて、音もなくゆつくり流れ落ちてゐるのでした。風が本堂の両側からこの谷間へ吹きおろすたびに、一段々々きれいなさざ波を立ててしぶくのでしたが、そのため水は片側に吹き落されるでもありませんでした。相変らずゆつくり一段ごとに流れおりてくるのです。その水は階段のすぐ足もとにかなりの大きさの水溜《みずたま》りを作つて、それから左右に分れて土の上を流れるのでしたが、そこはもう奔流といつてもいいくらゐの勢ひでした。さすがのHさんもこんな光景は初めてだと見えて、暫《しばら》く呆《あき》れたやうに立ちすくんでゐましたが、やがて何か冗談めいたことを言ふと、水溜りをぼちやぼちや渡つて、石段をのぼりだしました。千恵もそれに従ひました。
もちろん足をさらはれるほどの水勢ではありません。ただちよつと気味が悪いだけのことです。水はあとからあとから流れ落ちて来ます。それはちやうど、本堂の裾《すそ》から垂れてゐる経帷子《きょうかたびら》の裾を踏んで行くやうな気持だつたと言つたら、母さまはお笑ひになるでせうか。でも千恵は冗談どころではありませんでした。どうしたわけか胸が早鐘《はやがね》をうつてゐました。もつともそれは、ほとんど絶え間なしに本堂のあたりから吹きおろしてくる風に傘をうばはれまいとする、その努力のせゐも手伝つてゐたかも知れません。
それでも十段ほど登つて、そこで一休みし、また暫く登りつめたころ、横なぐりに吹きつけた風に傘をながされて、千恵の頭のうへが空つぽになりました。それで黒つぽい雨具をつけた婦人が二人、上からおりてくるのに気がつきました。「おや、あんなところに人が!」とは思ひましたが、まさかそれが姉さまとFさんだらうとは、その瞬間おもひもかけなかつたのです。あちらも用心しいしい悠《ゆっ》くり下りてくるのですから、すれ違ふまでにはだいぶ時間がかかつたのです。距離がやがて二三段にまで縮まつて、二人のレーンコートの黒い裾が目にはいりだした時、また千恵の傘がぐいと横にかしいで、思はず千恵は姉さまの顔を下から見上げてしまつたのです。その刹那《せつな》、眼と眼がぶつかつたやうな気がしました。ひやりとして、あわてて眼をそらしましたが、もうその時は傘がひとりでに立ち直つて、姉さまの上半身は隠れてしまつてゐました。その足もとが何かためらふやうに、ほんの二三秒動かなかつたのを、千恵は覚えてをります。その二三秒のあひだに、とても永い永い時間が流れたやうな気がいたします。ひよつとするとそれは、実際かなり長い時間だつたのかも知れません。やがて二人はそろそろと千恵の横をおりて行きました。二人とも傘はささずに手に持ち、Fさんが片つ方の腕を姉さまの背中へ軽く廻してゐました。
気がつくとHさんが五六段うへに立つて、千恵を見て笑つてゐました。片眼をつぶつて、舌でも出したさうな笑ひ顔でした。「ほらね、やつぱり私の言つた通りでしよ?」と、その顔には書いてありました。千恵はさも平気さうなふりをしてHさんに追ひつき、かうして「姉さま!」と呼びかける機会は千恵にとつて永遠に失はれてしまつたのです。
やがてHさんと千恵は、石段をのぼりきつたすぐ横手にある小さな潜《くぐ》り戸《ど》から、本堂へはいりました。閂《かんぬき》に錠がかけてなく、引くとすぐ開いたのに、Hさんはちよつと小首をかしげたやうな様子でした。……
………………………………………
母さま、千恵はかうしてかねがね一目みたいと心にかけてゐたあの本堂の中へはいつたわけなのですが、思ひ構へてゐたやうな大層なことは、何一つそこにはありませんでした。千恵は何かしら姉さまの秘密をとく鍵のやうなものがあすこに隠れてゐるやうな気がして、その幻の鍵がしだいにふくれあがつて来て、一頃はどうにも始末がならなかつたものでしたが、いざこの眼で見てみれば、秘密も謎《なぞ》も鍵も、そんなものは初めから何もありはしなかつたのです。堂内は冷えびえした午後の薄ら明りでした。吹き降りの気配は忘れたやうに去つて、静寂がさむざむとあたりを籠《こ》めてゐるだけでした。その静寂のなかに、どこからかお香の匂ひが漂つてくるやうな気がしました。もつともこれは気のせゐだつたかも知れません。期待した血なまぐさい臭《にお》ひなんか、これつぱかしも残つてはゐませんでした。広びろしたコンクリートの床は掃除がきれいに行きとどいてゐて、血の痕《あと》はおろか、足跡ひとつ塵《ちり》つぱ一本落ちてはゐませんでした。ただ千恵たちが最初のぞきこんだ場所から少し離れた
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