、あの辺の山小屋みたいな別荘へ疎開してらつしやることと思ひ、むりやりさう信じようとしてゐました。けれどこれは、はかない空頼みにすぎませんでした。現に姉さまは、ちやうどその頃Hさんの店へ、イチジク灌腸《かんちょう》を買ひに見えたといふではありませんか。そして恐らく方々の屍体収容所を探《たず》ねあぐねた末に、N聖堂の中をまで一度ならずうろついていらしたといふではありませんか。潤太郎さんはきつと何かの病気だつたに違ひありません。その病気の潤太郎さんと、姉さまはあの騒ぎの中ではぐれておしまひになつたに相違ありません。潤太郎さんは若い気の利かない小女《こおんな》か何かの手に抱かれたまま、どこかで一緒に焼け死んだのかも知れません。
不吉な予想です。それは重々わかつてをります。ですが千恵は、現にその姉さまの一人ぼつちの姿も見、その怖ろしい眼《まな》ざしも現にこの目で見、またHさんの物語も聞いてしまひました。これはもう予想ではありません。それでも母さまは無理に陽気な笑ひごゑをお立てになるのですか? 千恵はもしそんな母さまだつたら心からお怨《うら》みします。……古島さんの話によると、その夕方ふじゆうな片腕で一心に棒ブラシを使つてゐた古島さんは、ふと外陣《げじん》の暗がりの中でうごめいてゐる人の気配を感じて、ぎよつとしたのださうです。死人が蘇《よみが》へつたのではあるまいか――と、咄嗟《とっさ》にそんな錯覚をさへ感じたさうです。それがその婦人[#「その婦人」に傍点]なのでした。姉さまはいつの間にかこつそり忍び込んで、残る幾体かの青黒い屍体《したい》を、身をかがめて一つ一つ覗《のぞ》きこんでゐたさうです。古島さんが呆然《ぼうぜん》としてその姿を見守つてゐると、とつぜん足もとまで這《は》ふやうに寄つて来てゐた姉さまが、矢庭《やにわ》に片手で古島さんの二の腕をつかみ、のこる手を背の低い古島さんの顎《あご》へかけて、ぐいぐい恐ろしい力で突きあげながら、「ああ坊や、坊やだつたのね、ほんとに坊やだつたのね。お母さんは……」とまで言ひかけて、あとははらはらと落涙したのださうです。古島さんはもちろん無我夢中でした。あの落ちついた物に動じない青年が、夢中で悲鳴をあげたのでした。それでもさすがに古島さんは、驚きうろたへながらも、上からまじまじと自分を覗きこんでゐる婦人の眼を、ほんの束《つか》のま見返すだけの余裕があつたさうです。その眼の印象を古島さんは、前にも記しました通り、「それはあのかた[#「あのかた」に傍点]の眼でした、確かにあのかた[#「あのかた」に傍点]の眼でした……」と司祭さんに告げたのでした。この「あのかた」といふのが誰を指すものか、Hさんの話を聞いた当座の千恵には分りませんでした。Hさん自身にしても分つてゐなかつたのでせう。けれど、やがてあとになつて……
いいえ、千恵はなんだか頭がこんぐらかつて来ました。窓を、窓をあけようと思ひます。……
………………………………………
夜気が流れこんで来ます。まるで霜《しも》のやうに白々《しらじら》とした夜気です。北の空は痛いほど冴《さ》えかへつて、いつのまにか母さまのお好きなあの七つ星が中ぞら近くかかつてゐます。もう夜半はとうに過ぎたのでせう。なんの物音もしません。しんしんと泌《し》みこむ夜気を、千恵の頭はむしろ涼しいやうに感じます。しばらく、向ふの森かげから覗《のぞ》いてゐる焼けただれた工場の黒々とした残骸《ざんがい》に、千恵はほうけたやうに見入つてをりました。
だいぶ頭が冷えて来ました。まだ頭の芯《しん》は妙にもやもや火照《ほて》つてゐますけれど、でももうあと一踏んばりです。千恵はこの手紙をとにかく最後まで書きあげて、封をしてしまはないことには、とても今夜は眠れさうもありません。あとほんの少しです。母さまももう暫《しばら》くがまんして下さい。……
どこまで書きましたかしら? ああさうさう、「あのかた」といふ文句で千恵は爪《つま》づいたのでした。
Hさんの話によると、姉さまの姿はその後もちよいちよいN会堂の構内に見受けられたさうです。残りの屍骸《しがい》は約束どほりその翌《あく》る朝には全部はこび去られ、聖堂の浄《きよ》めもすつかり済んだあとでは、日ましに烈《はげ》しくなる空襲のもと、正面の鉄扉は再び固くとざされてしまつたので、もちろん姉さまは堂内にはいつてわが子の屍体をさがし求める機会は二度と再びありませんでした。その頃はもう通り抜ける人影も稀《まれ》な上に、植込みのそこここには空掘《からぼ》りの防空壕《ぼうくうごう》も散在してゐようといふ荒れさびた聖堂の構内を、姉さまは当てもなくうろつくだけのことでした。その時間も、十分二十分と行きつ戻りつするならまだしものこと、時によると一時間ちかくも構
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