、とても一生涯わすれられさうもないと、さすがのHさんも話しの途中で殊勝らしく眼をつぶりました。
 その夕日の色もだいぶ暗くなつて来た頃のことださうです。ふと何やらけたたましい人声がして、それが仰山《ぎょうさん》に円天井にこだましたので、Hさんがギョッとしてあたりを見廻すと、屍体を片寄せた左手の外陣のあたりを先刻から懸命に洗つてゐた小柄な古島さんが、誰かしら見知らぬ人影とまるで組打ちでもするやうな恰好《かっこう》で争つてゐるのが見えました。その異様な声は、争ひながら古島さんが夢中で立てた悲鳴だつたらしいのです。のこる三人は思はず棒ブラシを捨てて、その不意の闖入《ちんにゅう》者のそばへ走せ寄りました。それは紫色のモンペをはいた、かなり背の高い女でした。防空|頭巾《ずきん》もかぶらず、髪をふり乱して、透きとほるやうな蒼白《あおじろ》い顔をして、その婦人はぎろりと三人の方を振り向きました。それが……姉さまだつたのです。
「あ、Sの奥さま!」と、Hさんは思はず叫び声をたてました。湯島の同じ町内で、Hさんは姉さまの顔をよく見知つてゐたからでした。そればかりか罹災《りさい》のつい二三日前にも、ちやうどHさんが夕方ひとりで店番をしてゐた時、姉さまが心配さうな蒼い顔をして、小児用のイチジク灌腸《かんちょう》を買ひに見えたのださうです。もう都内の薬局は何によらず品薄になつてゐた頃で、もちろんイチジク灌腸もその例外ではありませんでしたが、普通ならにべもなく「お生憎《あいにく》さま」で済ますところを、Hさんは姉さまの真剣な顔つきに気押《けお》されて、気前よく手持ちのなかから半ダース譲つてあげたのださうです。そんなことがあつたので、尚《なお》のことHさんの眼は敏感にはたらいたわけなのでした。
 そのHさんの叫び声に、姉さまはじいつとHさんの顔を見つめましたが、そのまなざしは全くうつろな、感動の色も識別力の気配も全然ない、いはばほうけきつたやうな眼だつたさうです。
 そんな眼つきで暫《しばら》くHさんの顔を見てゐた姉さまは、やがてにたりと不気味な薄笑ひを蒼白《あおじろ》い顔にうかべると、その時までしつかり掴《つか》まへてゐた古島さんの片腕をはなして、すうつと足音も立てず出口の方へ出ていつてしまつたのでした。駈《か》けつけた三人は呆然《ぼうぜん》とその後ろ姿を見おくりました。ふとHさんが気がついてみると、古島さんはいつのまにかまた棒ブラシを拾ひあげて、そのくせ床を拭《ふ》きはじめるのでもなく、ぼんやりと眼の前の屍体《したい》の一つを見つめてゐたさうです。……
 あとで古島さんが司祭さんに打明けたところによると、古島さんが姉さまの姿をその堂内で見かけたのは、その夕方がはじめてではなかつたのでした。何べんといふことははつきり覚えがないにしても、その眼つきのするどい、背のすらりと高い、色の抜け出るほど蒼白い婦人の姿は、たしかに三度か四度は屍体引取りに来た人の群のなかで見かけた記憶があつたさうです。もちろん身寄りの誰かれの屍体をたづねてN会堂を訪れた人びとは、もしそれが女ならば、みんな一様に血走つた眼つきをし蒼ざめた顔をしてゐたに相違ありません。が、そのなかで姉さまのお顔や眼だけがそんなふうに古島さんの印象にはつきり焼きついてゐたのには、もとよりそれ相応のわけがあるに相違ありません。一体なぜだつたのでせうか? それは「あのかた[#「あのかた」に傍点]の眼でした」と、古島さんはきつぱり言ひ切つたとHさんは語りました。千恵はそれを聞いたとき、思はずつい一時間かそこら前に廊下の窓からじいつと室内をのぞきこんでゐた姉さまの凝視を、まざまざと思ひ浮べました。さうです、いかにもあのかた[#「あのかた」に傍点]の眼つきに相違ありません。あのなんとも言ひやうのない凝視を一度でも見た者は、もはや決してその持主を思ひちがへる筈《はず》はないのです。
 それにしても、姉さまは一たい誰をさがしてゐたのでせうか。Hさんのお祖母《ばあ》さんは道ばたの防空壕《ぼうくうごう》のなかで焼け死んだと言ひます。そんな聯想《れんそう》から、千恵はひよつとしたらS家のお母さまの行方が知れないのではあるまいかと一応は考へてみました。もちろんこの考へ方がほんの気休めにすぎまいことには、千恵も初めから気がついてをりました。行きがた知れずになつたのが、あの確かその頃六つだつたはずの潤太郎さんだといふことは、今ではもう色々の理由から千恵は疑へなくなつてをります。S家のお母さまなら、疎開などではなしに、とうから御殿場《ごてんば》の別荘にお住みだつたはずではありませんか。じつは千恵は、姉さまもとうに湯島の本宅は引払つて、もとより仲違《なかたが》ひをしたSのお母さまのところではないにしても、どこか軽井沢か五色《ごしき》か
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