提議したのでした。――あすの朝になれば一体あまさず引取つてもらへるのだから、浄《きよ》めはまあそれからでもいいではないか、と司祭さんは一おう制したさうですが、「それは如何《いか》にもそれに違ひはないが、現に日ましに烈《はげ》しくなる空襲の模様をみると、あすまたどのやうな事がはじまるものやら分つたものではない。いやそれどころか、第一わたしたちの命にしたところで、あすの日は知られないではないか……」といふ、敬虔《けいけん》な家政婦の尤《もっと》もでもあれば熱心でもある言葉に、司祭さんも結局賛成せずにはゐられませんでした。Hさんもその清掃の手伝ひをさせられたわけです。さう事が決まると司祭さんは、ゲートルを巻いた防空服装のまま跣足《はだし》になつて、みづからその浄めの奉仕の先頭に立ちました。
奉仕の人数は四人でした。もう一人、古島さんといふ教僕が、すすんで手伝ひをしたからです。この古島さんといふ人は、なんでも九十九里あたりの漁村から来た青年ださうですが、奇妙なことには片腕――しかも右の腕が、根もとからありませんでした。その不具の原因は、千恵もたうとう聞き出すことができませんでしたが、決して戦地だの空襲だののせゐではなくて、幼いころ何か大病を患《わず》らつたときに切断されたものだといふことでした。そんな不幸な生ひ立ちの人ですから、子供の頃から教育も満足ではなく、信仰の道に入つたことはごく自然の成行きでせうが、もう一つ古島さんには、天成のすぐれた画才がありました。その画才と篤信《とくしん》が、どういふ筋道だつたかは存じませんが司祭さんに見出《みいだ》されて、だいぶ前からN会堂の教僕として住み込んでゐたのです。といふのはその司祭さんが、聖職者には珍らしく洋画(それも聖画ではなしに主に風景画ですが――)の道では、素人《しろうと》の域を脱した腕前を持つてゐたからでした。千恵はついこのあひだ、司祭さんの絵もそれとなく拝見する機会がありましたし、とりわけ古島さんの未完成の絵を見せられて、なんとも言へない感動にとらはれたのです。けれど絵のことは、とりあへず後廻しにしませう。……
その古島さんといふ青年は、見れば見るほど不思議な人でした。左手で立派に絵をかきます。のみならずほんのちよつとしたメモのやうなものを見たことがありますが、その筆蹟《ひっせき》もなかなか几帳面《きちょうめん》で、これが小学も満足に出てゐない人の書いたものかと思はれるほど正しい字づかひでした。しかもその左手で、掃除のバケツも握れば炊事の釜《かま》も洗ふのです。千恵はこの人と言葉こそ交はしたことはありませんが、よそ目ながらN会堂の構内で二度ほど行き会つたことがあります。その一度などは揚水ポンプのついた井戸端で洗濯物をしてゐるところでしたが、その片手の使ひ方の器用なことと云つたら、見てゐる方で妙に不気味な感じがしてくるほどでした。痩《や》せ細つて、背はむしろ低い方、両|頬《ほお》がこけて、ちよつとスプーンのやうな妙な恰好《かっこう》をした顎《あご》ひげを生やしてゐます。そのため青年のくせに何だか年寄りじみて見えましたが、年は二十七だとかいふことでした。するどい、まるで射るやうな眼をしてゐます。けれどその眼も、たつた一ぺんだけ視線を合はせたことがありますが、こちらがハッとした次の瞬間には、虔《つつ》ましく地に伏せられてをりました。声も扉ごしにふと耳にしたことがありましたが、それは一言々々尾をひくやうな物静かな柔和《にゅうわ》な声音《こわね》で、しかもその底に妙にはつきりした物に動じない気勢が感じられました。
……それはまあさうとして、Hさんも加へた同勢四人の手で、聖堂の浄《きよ》めは手順よく運んでゆきました。青黒く変色した幾体かの焼死体は、左手の外陣の一隅に片寄せられて、上から真新らしい菰《こも》がかぶせられました。左右の外陣の窓の鉄扉はあけはなされて、春の夕暮の風がしだいに異臭をうすめてゆきました。あとは百坪は優にあらうかと思はれるコンクリートの床の水洗ひが残るだけでしたが、これが中々の大仕事でした。うづ高いほど積まれてゐた屍体《したい》からいつのまにか泌《し》みだした血あぶらで、床はいちめん足の踏み場もない有様だつたといふことです。しかもそれが、ちつとやそつとの水洗ひではいつかな落ちず、手に手に棒ブラシを持つた四人は思はず顔を見あはせて、深いため息をついたさうです。金色の壁面にさまざまの聖者の像の描いてある聖障は、もちろんぴつたり閉ざしてあります。けれど折からの夕日が西向きのバラ窓から射しこんで、内陣にあふれるその光が高い円《まる》天井に反射し、堂内はまるで夢のやうな明るさだつたと言ひます。その光のなかに、いくら拭《ふ》いても擦《こす》つてもぎらぎら浮いてゐる血あぶらの色だけは
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