た。朝の九時近くになつて、Hさんは先《ま》づ妹と女中に逢《あ》ひ、つづいて兄さんたちや弟と行き会つたさうですが、お祖母さんが道ばたの防空壕《ぼうくうごう》のなかで焼け死んでゐることが分つたのは、やつとお午《ひる》近くになつてからでした。……
 とりあへずお母さんとHさんは駿河台《するがだい》の従姉《いとこ》の家へ、のこる家族は駒込《こまごめ》だかの親類の家に転がりこむことになりました。その従姉といふ人は後家《ごけ》さんで、あの有名なN会堂のすぐ崖《がけ》下に住んでゐました。その教会の古くからの信者で、それが縁で構内に宿をもらつて、司教館の家政婦のやうな役目をしてゐたのです。やつと持ち出した二つ三つの風呂敷包やリュックと一緒に、Hさん親子がその宿に移つたその夕方ちかく、N会堂では思ひがけない不思議なことが起りました。何百といふ焼死体が、トラックや手車でぞくぞくと本堂へ運びこまれたのです。Hさんは実際にその有様を見たのださうです。そればかりか、そのうち十体ほどは運び込む手伝ひをさへしたと言つてゐます。さすがに気持が悪くなつて、いそいで家へ逃げこんで蒲団《ふとん》にもぐりこんださうですが。……
 なぜそんな奇妙なことが起つたかといふと、あとから考へれば理由は簡単なのでした。つまり警察当局がおびただしい焼死体の処置に窮したのでした。まさか引取人《ひきとりにん》を待たずに、すぐさま現場で焼いてしまふわけにも行かなかつたのでせう。そこで管内の焼け残つた学校などに収容したらしいのですが、それで収容しきれなくなつた屍体《したい》を、幸ひ最寄りにあるこの大きな会堂へ持ち込んできたといふわけなのです。この交渉を受けた司祭さんは、Hさんの形容によると太つ腹なはつきりした人ださうです。折から風邪《かぜ》気で引つ籠《こも》り中だつた司教の意向をただすまでもなく、「よろしい、わたしの責任でお引き受けしませう」と相手のお役人に答へると、言下に本堂の正面の扉を真一文字《まいちもんじ》に開かせたと言ふことです。これには相手の方が却《かえ》つて呆気《あっけ》にとられたほどだつたさうです。
 引取人は翌《あく》る朝まだきから、続々とつめかけて来ました。その人たちの啜《すす》り泣きや号泣《ごうきゅう》の声が高い円《まる》天井に反響して、それが時折り構内へもれて聞えるのが、最初の二三日はなんとも言へず不気味だつたさうです。何かの用事で構内を横ぎる時など、思はず耳に蓋《ふた》をせずにはゐられなかつたと、Hさんはさすがに眉《まゆ》をひそめて話すのでした。けれど、それはまだまだよかつたのです。やがて二三日すると、屍体はあらかた引取られましたが、それでもまだ二三十体は残つてゐました。それがそろそろ屍臭《ししゅう》を発しはじめたのです。もちろん堂内の窓といふ窓は鉄扉《てっぴ》をかたくとざしてあります。入口の大扉も、引取人が殆《ほとん》ど来つくした今となつては閉めきりになつてゐるので、その異臭が外へもれる心配はまづありません、それなりに、いくら大きなあの本堂だとはいへ、密閉された空気は何しろ春さきのことですから、むうつと蒸れるやうな生温かさです。で、事情を知つた者の鼻には、その本堂から一ばん離れてゐる西門をくぐつた瞬間にすら、異様な臭気がどことなく漂よつてくるやうな気がしたと言ひます。
 さすがの司祭さんもたうとう堪《たま》りかねて、残る屍体の引取り方をやかましく警察へ交渉しはじめましたが、さうなると中々らちが明きません、四日目になり五日目になり、たうとう六日目になつてから、やつとトラックが一台きて、どこかへ運んで行つたさうです。けれどやはり載せきれずに、まだ五六体ほど残つたのですが、もうそろそろ夕方近くだつたので、翌る朝でなければ残りは運べないことになりました。
 その夕方はじめて、Hさんは本堂へ足を踏み入れてみたさうです。それがどれほど無残な有様だつたかを、Hさんはこまごまと物語りました。あとになつて思ひ合はせると、Hさんが一ばん力を入れて話したのは、ほかならぬその地獄絵のやうな光景だつたらしくさへ思はれるほどです。それを物語るHさんの頬《ほお》には、怪談をして幼い者をおびえあがらせる人の無邪気な情熱と、あの得意の色とがはつきり浮んでゐました。が今晩の千恵には、それを事こまかに母さまにお伝へする興味もなければ、またその必要もありません、地獄絵のあとに、聴く身にとつては何層倍も身の毛のよだつやうな物語が続いたのですから。……
   ………………………………………
 その夕方、空が晴れわたつてまだ堂内がかなり明るく、それに珍らしくその日は警報の気配がないのを見て、信仰の篤《あつ》いHさんの従姉《いとこ》は、久しく肉の汚れに染められた聖堂のなかを、一まづ清掃してはどうかと司祭さんに
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