かな! この部屋にゐるのはみんな貧民の子ばつかりよ!」
 保姆さんは吐きすてるやうに言ひましたが、またチラッと千恵の顔へ走らせた眼のなかには、何か憫《あわ》れむやうな微笑がありました。そしていきなり、
「あの人かはいさうに」と人さし指で自分のこめかみをトンと叩《たた》いて、「脳バイだつて噂《うわさ》もあるわ」と、思ひがけないことを言ひだしました。
 千恵は呆気《あっけ》にとられました。といふより、何か金槌《かなづち》のやうなもので脳天をガアンとやられたやうな気持でした。その千恵の表情にまたチラッと眼を走らせた保姆さんは、何を勘ちがへしたものか「可哀《かわい》さうに!」とまるで千恵をあはれみでもするやうな調子でつぶやくと、
「初めてぢや無理もないけど、でもばかに感動しちまつたものねえ。……けどね。ちよつとばかり不気味ぢやあるけど、あの人ほんとは可哀さうな人なんだわ。聞きたい、あの人のこと? 変てこな縁で、あたしあの人のことは割合よく知つてるのよ。」
 ますます意外な話の成りゆきに、千恵はすつかり固くなつて、「ええ」とも「いいえ」とも答へられず、Hさん(これがその保姆さんの名前でした)の顔を見つめてゐました。唇がわれにもあらず顫《ふる》へてゐました。顔色もさぞ蒼《あお》かつたことでせう。
 おびえあがつたやうな千恵の様子を見ると、Hさんはたちまち態度が変つて、さも世話ずきらしいおしやべりな女になりました。それが地金《ぢがね》だつたのです。つまりHさんは、残忍と親切とを半々につきまぜた、世間によくあるあの単純な女の一人だつたのです。なりに似合はず臆病《おくびょう》な小娘にぶつかつて、これはいい睡気《ねむけ》ざましの相手が見つかつたと内々ほくほくしてゐるらしいことは、つい先刻まであんなに不愛想だつた一重《ひとえ》まぶたの小さな眼が、生き生きと得意さうに輝きだしてゐることからも察しがつきました。思へば不思議な一夜でした。千恵はじつと聴耳《ききみみ》をたててゐました。Hさんは時どき横目を千恵の顔のうへに走らせて、そこに紛れもない恐怖の色をたしかめると、また安心して話の先をつづけるのでした。風が出たらしく、松林がざわざわと鳴つてゐました。急に温度がさがつて、Hさんも、千恵もショールを控室《ひかえしつ》へとりにいつて、それを首へ巻きつけたほどでした。
 その晩Hさんが千恵にしてくれた話といふのは、おほよそ次のやうなものです。Hさんは、あの姉さまの湯島の家とおなじ町内にある大きな薬局の娘なのでした。それで姉さまはもとより、Sの兄さまや潤太郎さんのことまで、前々からそれとなしに知つてゐたらしい上、S家の事情にもかなりよく通じてゐる模様でした。この奇遇を、千恵は感謝していいものかどうかは知りません。……
   ………………………………………
 本郷の南から神田にかけての一帯が焼けたとき、Hさんはまだ産婆《さんば》学校へ通つてゐたので、やはり湯島の本宅で罹災《りさい》したのださうです。夜間の空襲がやつと始まつた頃のことで、「なあに大したことは……」といつた気分のまだまだ強かつた時分でした。その日ちよつと学校の帰りの遅くなつたHさんが暫《しばら》くぶりのお風呂にはいり、「さあ今のうちに寝とかなくちや」などと冗談を言ひながら二階の寝床へもぐりこんで、とろとろつとしたかしないかの間ださうです。隣に寝てゐた妹にいきなり手荒に揺りおこされ、ハッと気がついた拍子に、何やら自転車が二三台ほど空から降つて来でもしたやうな物音が、すぐ裏庭のあたりで立てつづけにしたと言ひます。あとはもう無我夢中で、暗がりの梯子段《はしごだん》をよくまあ踏みはづさなかつたと思ふくらゐ、下の座敷へ飛びこんでみると庭の雨戸はいつのまにか一枚のこらず外され、おやもう夜が明けるのかしらと思つたほど明るかつた。その中で甲斐々々《かいがい》しく立ち働らいてゐる人影が、お母さんやお祖母《ばあ》さんや若い女中だといふことにさへ咄嗟《とっさ》には気がつかなかつたさうです。そこへ縁先から飛びこんできた兄さんに何やら大きな声でどなりつけられ、やつと目が覚めたやうな思ひがしたのもほんの束の間で、あとはまたもや無我夢中。……「大学へ逃げろ。大学へ逃げろ」と、誰かの大声が耳のなかでがんがんするばかり、それにそこらぢゆう一面まるで花火をばら撒《ま》きでもしたやうな閃光《せんこう》で埋まつてゐるやうな気がしただけださうです。
 Hさんがやつと炎の海に気づいた時は、大学病院寄りの電車道でお母さんの手をしつかり握つて立つてゐました。一しきり何か物凄《ものすご》い音がして、途方もなく大きな火の蛇《へび》が、ざざーつと這《は》ひ過ぎたのをはつきり覚えてゐるさうです。Hさんはお母さんと大学病院の繁《しげ》みのなかで夜を明かしまし
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