内をさまよつてゐたことさへあつたと云ふことです。当のさがす相手も、もはや幼な子の惨死体などではなくて、まぎれもないあの古島さんの生ける姿だつたらしいことは、姉さまの挙動や眼つきを遠目ながら窺《うかが》ふ機会のあつたほどの人なら、異口同音に断言したさうです。もちろん古島さんはすつかり怖気《おぞけ》をふるつてしまつて、姉さまの紫色のモンペ姿がちらりと見えようものなら、血相かへて自分の部屋へ逃げこんでしまふのでした。それでも出逢《であ》ひがしらに危くつかまりさうになつたことも、一二度はあつたさうです。
「色きちがひぢやないかね……そんな噂《うわさ》までが、会堂の関係者のあひだに、ひそひそ声でささやかれたものでしたよ。もつとも私たちに言はせれば、あのSの奥さんは、やつぱりここんところ(と、自分の額《ひたい》を指さきで軽く叩《たた》いてみせて――)が、ちよいと変になつてゐるだけのことだといふぐらゐは、まあ見当がついちやゐましたがね。……」
とHさんは長談義をやうやく結びながら、ニッと冷やかな微笑を浮べて、またもやあの忌《いま》はしい病気の名を口にするのでした。……風が出て、一しきり松原を鳴らして過ぎました。飛行機が一台、かなりゆるい速度で海の方からはいつて来て、都心の方角へ遠ざかつてゆきました。そんな物音が夜の深さをしんしんと感じさせたのを千恵はよく覚えてをります。語りやんだHさんはさも誇らしげな目つきで、じろじろ千恵の顔を観察してゐました。もちろん千恵の唇には血の気が失《う》せてゐたでせう。そのくせ、「見たけりやたんと見るがいい!」とでも云つた捨鉢《すてばち》な、しかも妙な落着きのやうなものが千恵の胸のそこにはありました。ふてくされながら、かげで舌を出してるみたいな気持でした。汚辱とでも屈辱とでも云へる或る毒気のやうなものが千恵のおなかの中に渦巻いてゐるのは事実でしたが、しかもそれが鵜《う》の毛ほどもHさんに感づかれてゐないといふ自信は、なんとしても快いものでした。「ええ、わたしはこの通り臆病《おくびょう》な小娘ですのよ」――すなほに伏目《ふしめ》を作りながら、千恵は思ふぞんぶんHさんに凱歌《がいか》を奏させてあげたのです。それがせめてものお礼ごころなのでした。
交替の時間まではまだ少し間がありました。そのうちだんだん千恵も口をきく余裕が出てきて、二つ三つ腑《ふ》に落ちぬ点を聞き返すことができました。
「すると、あの奥さんは行方しれずになつたその坊ちやんのことがまだ思ひきれずに、ああして産院なんかを覗《のぞ》きにくるのでせうかしら?……」
「一口に言ふと、まあそんなことなのね。けれど実際に生きてる子にめぐり会へる気でゐるのかどうかといふことになると、そこがどうやら怪しいのよ。現にああして廊下の窓から覗《のぞ》いてゐる目附きにしたところで、何かを捜すやうな落着きのない目つきぢやなくて、何かじいつと一点を見つめるやうでゐて、そのくせ妙にとりとめのない、まあ要するに夢と現《うつ》つの間をさまよつてゐるみたいな目つきなんだわ。それだけに一層もの凄《すご》く感じられるわけなのね。……いつぞやわたし、附添ひのFさんにちよつと聞いてみたことがあるけれど、あれでゐてあの奥さんとても大人しいんだつて。へたに逆らはずにそつとして置きさへすれば、ふつうの人以上に扱ひやすい患者さんだつてFさん言つてゐたわ。分裂症であんなおだやかな人は珍らしいと、先生がたも言つてゐるさうよ。Fさんの話だけれど、あんなふうに窓を覗きにくるのだつて、何もはじめからその積りで来るのぢやなくて、夜の散歩のついでにふとこの産院の灯《あか》りが目にはいると、何か誘はれるみたいにふらふらつと庭のガラス戸を自分で押すのださうよ。あの奥さんちよつと不眠症の気があるので、夜九時になるときまつて一時間ぐらゐ庭の散歩に連れだすことになつてゐるんですつて。はじめは松原のなかを、ゆつくりゆつくり歩きまはる。それから河岸《かし》へ出て、闇夜でも月夜の晩でも、あすこのベンチに腰かけて、じいつと河の面《も》をみつめる。時たま発動機船がエンジンの鼓動を立てながら、黒々と貨物の山を盛りあげた艀《はしけ》を曳《ひ》いて河口をのぼつて行つたり、あべこべに河口から湾内の闇へ吸ひこまれて行つたりするけれど、奥さんはその黒い影が目にはいるのやら、そのエンジンの音が耳にはいるのやら、さつぱり分らない。身じろぎもせず、じいつと河の面をみつめてゐる。時たまは空を見あげて、何か或るきまつた星を、かなり長い間じつと見守つてゐる。それから突然たちあがると、自分からさつさと本館の方へとつて返す。そしてあの前の院長さんの胸像の立つてゐる円《ま》るい芝生のところまで来たところで、奥さんの足が右へ廻るか左へ廻るかによつて、その夜の散歩が伸
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