《あしかが》の世に初めてわが国に渡来した。北条氏は足利氏の縁者である。その北条氏の滅亡遺恨の地に、今や南蛮寺が建つ。ジャボ(天狗)を相手に田楽《でんがく》を舞つた狂将の幽魂、今は全く瞑《めい》すべしであらうか。
それにしても、この会堂を敢《あえ》て南蛮寺と名づけた私の気持ちは、必ずしも一片の気紛れだけではない。京都や安土《あづち》のエケレジヤの建築様式については、南蛮|屏風《びょうぶ》や扇面|洛中《らくちゅう》洛外《らくがい》名所図などに徴して、ほぼ仏寺の体《てい》であつたと推定されてゐるが、これが地方へ行くと、むしろ武将の邸宅がそのまま会堂として提供された例が多い。豊後《ぶんご》の大友フランシスコ義鎮《よししげ》、肥前《ひぜん》の大村バルトロメオ純忠《すみただ》などの場合がそれだ。つまり南蛮寺としては、この方がむしろ本筋なのであつて、星移り物変つて昭和の今日、政商の別業が化してエケレジヤとなる如《ごと》きは、まことに南蛮寺の本旨《ほんし》に適《かな》つたものと言はねばならぬ。……
私は、藁《わら》屋根の上の例の櫓《やぐら》を眺めながら、しばらくそんな史的考察に耽《ふけ》つたのち、
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