ほとりに佇《たたず》んで、改めてエケレジヤ(教会)の壮観に眺め入つたのである。
 元来この台地一帯は、北条氏の菩提寺《ぼだいじ》だつた東勝寺の旧跡で、且《か》つその一門滅亡の地でもある。太平記を按《あん》ずるに、義貞《よしさだ》のため一敗地にまみれ、この寺を枕に割腹焼亡した一族主従は、相模《さがみ》入道|高時《たかとき》を頭に総《す》べて八百七十余人、「血は流れて大地に溢《あふ》れ、満々として洪河の如《ごと》く」だつたといふ。その地が今化してエケレジヤとなり、信徒が群れ、ガラサ(聖寵)は降《くだ》り、朝夕アンゼラスの鐘が鳴る。世事|茫々《ぼうぼう》とはこの事だらうか。
 もつとも、不浄の地を転じて浄福の地に化することは、古今東西その例に乏しくないやうだ。現にこのK市にも極楽寺《ごぐらくじ》があつて、古老の言によると、その地は往昔の刑場であり、古く地獄谷の称があつたといふ。であるから私が無限の感慨をそそられるのは、寧《むし》ろそのことではなくて、現に私がその前に立つてゐる石塔の主と、キリシタン宗との間に存するところの、浅からざる因縁についてである。けだしキリシタン宗は、恰《あたか》も足利
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