して早や返答がない。すなはち愚僧、懐中に匿《かく》し待つ[#「待つ」はママ]たるクルスを取りいだし、これを三段に折つて座中に投げ散らせば、満座はどつとばかりどよめき渡り、めでたく宗論は結着した。……」
聴衆の中でも、そこここに感歎《かんたん》の声がもれる。弁士は得意げにあたりを見廻し、
「さて、お立会」と言ひかけた。
ところが、その時早しその時おそし、聴衆のなかに忽《たちま》ち破《や》れ鐘のやうな哄笑《こうしょう》が起つて、ぬつと前へせせりだした一名の壮漢がある。弁士と同じく僧形《そうぎょう》で、頭には柿《かき》色の網代笠《あじろがさ》をいただき、太い長杖をついてゐる。後姿なので人相も年の頃も分らないが、声から察するところ、まづ五十がらみの年配でもあらうか。つかつかと石段へ歩み寄ると、
「なつかしや梅庵、この声が分るかの」と言つた。静かな太い声である。
梅庵はその瞬間、かすかに顔色を変へたやうだつたが、口は利かない。
「分らずば言はうか。わしはその昔そなたと宗論をして、そなたを論破して、そなたの頭に扇子《せんす》をふるつたあの柏翁《はくおう》ぢやよ。ほれ、今そなたがした作り宗論の
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