修辞学やを強要した。
この約束の下で書かれた彼の作品は、僅少《きんしょう》のフウイトンをも含めて、一八八二年には三十二篇だったものが翌年には百二十篇、その翌々年には百二十九篇にのぼり、ついに二度目の、そして今度は結核性の喀血《かっけつ》を齎《もた》らすことになったのである。
それらの作品を通じて技法的に最も眼につくことは、彼がやり遂げた修辞学上の革新だ。彼はツルゲーネフの修辞学を見んごと覆《くつがえ》したのである。ここにはチェーホフの警敏さが見られる。それは最初は強制により次第に体得されて行った独自の簡潔主義から、必然的に生み出されたもので、著しい例は主として叙景の際に用いられる唐突な「嵌入法《かんにゅうほう》」である。それは時として突飛《とっぴ》な擬人法の挿入、時として客観的叙述の中へ作者の主観的抒情の挿入、また時として複雑な情景を簡明な一句で截断《せつだん》する形をとる。二、三の例。――
「星のきらめきは今までよりも弱まって、まるで月におびえでもしたように、その小《ささ》やかな光線を引っ込めてしまった。」(『奥様』第一章。一八八二年)
「大気は澄みきって、一ばん高い鐘楼《しょう
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