愛人のY子さんもをられた。辻野君のおそらく最後の仕事になつたモォリアックの『イエス伝』の仕上げも、たしかこの家で行なはれたはずである。そのころ長谷の通りのカトリックの会堂に、ジョリイといふ神父がをられた。辻野君はさまざまな疑義をただしに、よくこの神父さんのところへ通つたものである。僕もたしか一度連れられて行つて、辻野君が神父さんと交はす流暢なフランス語の会話を、黙つて聞いてゐた覚えがある。
だが、思へば短かい交渉だつた。犬懸の家には一年もゐずに、辻野君は死んだのである。彼がモォリアックの近作『黒天使のむれ』の読後感を、例の訥々とした口調で熱心に話して聞かせてくれたのも、この最後の時期より以前ではなかつたはずだ。
そんな短かい交際の期間を通じて、一きは鮮やかに僕の目蓋に焼きついてゐる辻野君の姿がある。それは、ある晩春の午さがり、逗子の砂浜でひつそり日向ぼつこをしてゐた後姿なのだ。東郷橋の手前にあつた辻野君の寓居を、たしか初めて訪ねた時だつたと思ふが、留守で玄関には錠がおりてゐた。たぶん海岸へ散歩に行かれたのでせうといふ家主の人の言葉に、僕は浜へ出て、はたしてそこに彼の後姿を発見したの
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