《ばか》り片眼《かため》をパチ/\と、自分《じぶん》を見《み》て笑《わら》ふ。
アンドレイ、エヒミチは強《し》ひて心《こゝろ》を落着《おちつ》けて、何《なん》の、月《つき》も、監獄《かんごく》も其《そ》れが奈何《どう》なのだ、壯健《さうけん》な者《もの》も勳章《くんしやう》を着《つ》けてゐるではないか。と、然《さ》う思返《おもひかへ》したものゝ、猶且《やはり》失望《しつばう》は彼《かれ》の心《こゝろ》に愈※[#二の字点、1−2−22]《いよ/\》募《つの》つて、彼《かれ》は思《おも》はず兩《りやう》の手《て》に格子《かうし》を捉《とら》へ、力儘《ちからまか》せに搖動《ゆすぶ》つたが、堅固《けんご》な格子《かうし》はミチリとの音《おと》も爲《せ》ぬ。
荒凉《くわうりやう》の氣《き》に打《う》たれた彼《かれ》は、何《なに》かなして心《こゝろ》を紛《まぎ》らさんと、イワン、デミトリチの寐臺《ねだい》の所《ところ》に行《い》つて腰《こし》を掛《かけ》る。
『私《わたくし》はもう落膽《がつかり》して了《しま》ひましたよ、君《きみ》。』と、彼《かれ》は顫聲《ふるへごゑ》して、冷汗《ひやあせ》を拭《ふ》きながら。『全《まつた》く落膽《がつかり》して了《しま》ひました。』
『では一つ哲學《てつがく》の議論《ぎろん》でもお遣《や》んなさい。』と、イワン、デミトリチは冷笑《れいせう》する。
『あゝ絶體絶命《ぜつたいぜつめい》……然《さ》うだ。何時《いつ》か貴方《あなた》は露西亞《ロシヤ》には哲學《てつがく》は無《な》い、然《しか》し誰《たれ》も、彼《かれ》も、丁斑魚《めだか》でさへも哲學《てつがく》をすると有仰《おつしや》つたつけ。然《しか》し丁斑魚《めだか》が哲學《てつがく》をすればつて、誰《だれ》にも害《がい》は無《な》いのでせう。』アンドレイ、エヒミチは奈何《いか》にも情無《なさけな》いと云《い》ふやうな聲《こゑ》をして。『奈何《どう》して君《きみ》、那樣《そんな》に可《い》い氣味《きみ》だと云《い》ふやうな笑樣《わらひやう》をされるのです。幾《いく》ら丁斑魚《めだか》でも滿足《まんぞく》を得《え》られんなら、哲學《てつがく》を爲《せ》ずには居《を》られんでせう。苟《いやしく》も智慧《ちゑ》ある、教育《けういく》ある、自尊《じそん》ある、自由《じいう》を愛《あい》する、即《すなは》ち神《かみ》の像《ざう》たる人間《にんげん》が。唯《たゞ》に醫者《いしや》として、邊鄙《へんぴ》なる、蒙昧《もうまい》なる片田舍《かたゐなか》に一|生《しやう》、壜《びん》や、蛭《ひる》や、芥子紛《からしこ》だのを弄《いぢ》つてゐるより外《ほか》に、何《なん》の爲《な》す事《こと》も無《な》いのでせうか、詐欺《さぎ》、愚鈍《ぐどん》、卑劣漢《ひれつかん》、と一|所《しよ》になつて、いやもう!』
『下《くだ》らん事《こと》を貴方《あなた》は零《こぼ》して居《ゐ》なさる。醫者《いしや》が不好《いや》なら大臣《だいじん》にでもなつたら可《い》いでせう。』
『いや、何處《どこ》へ行《ゆ》くのも、何《なに》を遣《や》るのも望《のぞ》まんです。考《かんが》へれば意氣地《いくぢ》が無《な》いものさ。是迄《これまで》は虚心《きよしん》平氣《へいき》で、健全《けんぜん》に論《ろん》じてゐたが、一|朝《てう》生活《せいくわつ》の逆流《ぎやくりう》に觸《ふ》るゝや、直《たゞち》に氣《き》は挫《くじ》けて落膽《らくたん》に沈《しづ》んで了《しま》つた……意氣地《いくぢ》が無《な》い……人間《にんげん》は意氣地《いくぢ》が無《な》いものです、貴方《あなた》とても猶且《やはり》然《さ》うでせう、貴方《あなた》などは、才智《さいち》は勝《すぐ》れ、高潔《かうけつ》ではあり、母《はゝ》の乳《ちゝ》と共《とも》に高尚《かうしやう》な感情《かんじやう》を吸込《すひこ》まれた方《かた》ですが、實際《じつさい》の生活《せいくわつ》に入《い》るや否《いなや》、直《たゞち》に疲《つか》れて病氣《びやうき》になつて了《しま》はれたです。實《じつ》に人《ひと》は微弱《びじやく》なものだ。』
彼《かれ》には悲愴《ひさう》の感《かん》の外《ほか》に、未《ま》だ一|種《しゆ》の心細《こゝろぼそ》き感《かん》じが、殊《こと》に日暮《ひぐれ》よりかけて、しんみり[#「しんみり」に傍点]と身《み》に泌《し》みて覺《おぼ》えた。是《これ》は麥酒《ビール》と、莨《たばこ》とが、欲《ほ》しいので有《あ》つたと彼《かれ》も終《つひ》に心着《こゝろづ》く。
『私《わたし》は此處《こゝ》から出《で》て行《ゆ》きますよ、君《きみ》。』と、彼《かれ》はイワン、デミトリチに恁《か》う云《い》ふた。『此《こゝ》へ燈《あかり》を持《も》つて來《く》るやうに言付《いひつ》けますから……奈何《どう》して這麼眞暗《こんなまつくら》な所《ところ》にゐられませう……我慢《がまん》爲切《しき》れません。』
アンドレイ、エヒミチは戸口《とぐち》の所《ところ》に進《すゝ》んで、戸《と》を開《あ》けた。するとニキタが躍上《をどりあがつ》て來《き》て、其前《そのまへ》に立塞《たちふさが》る。
『何方《どちら》へ! 可《い》けません、可《い》けません!』と、彼《かれ》は叫《さけ》ぶ。『もう眠《ね》る時《とき》ですぞ!』
『いや些《ち》と庭《には》を歩《ある》いて來《く》るのだ。』と、アンドレイ、エヒミチは怖々《おど/\》する。
『可《い》けません、可《い》けません! 那樣事《そんなこと》を爲《さ》せても可《い》いとは誰《たれ》からも言付《いひつ》かりません。御存《ごぞん》じでせう。』
云《い》ふなりニキタは戸《と》をぱたり[#「ぱたり」に傍点]。而《さう》して背《せ》を閉《し》めた戸《と》に當《あ》てゝ猶且《やはり》其所《そこ》に仁王立《にわうだち》。
『然《しか》し俺《おれ》が出《で》たつて其《そ》れが爲《ため》に誰《だれ》が何《なん》と云《い》ふ。』アンドレイ、エヒミチは肩《かた》を縮《ちゞめ》る。『譯《わけ》が分《わか》らん、おいニキタ俺《おれ》は出《で》なければならんのだ!』彼《かれ》の聲《こゑ》は顫《ふる》へる。『用《よう》が有《あ》るのだ!』
『規律《きりつ》を亂《みだ》す事《こと》は出來《でき》ません、可《い》けません!』とニキタは諭《さと》すやうな調子《てうし》。
『何《なん》だと畜生《ちくしやう》!』と、此時《このとき》イワン、デミトリチは急《きふ》にむツくり[#「むツくり」に傍点]と起上《おきあが》る。『何《なん》で彼奴《きやつ》が出《だ》さんと云《い》ふ法《はふ》がある、我々《われ/\》を此《こゝ》に閉込《とぢこ》めて置《お》く譯《わけ》は無《な》い。法律《はふりつ》に照《てら》しても明白《あきらか》だ、何人《なにびと》と雖《いへども》、裁判《さいばん》もなくして無暗《むやみ》に人《ひと》の自由《じいう》を奪《うば》ふ事《こと》が出來《でき》るものか! 不埒《ふらち》だ! 壓制《あつせい》だ!』
『勿論《もちろん》不埒《ふらち》ですとも。』アンドレイ、エヒミチはイワン、デミトリチの加勢《かせい》に頓《とみ》に力《ちから》を得《え》て、氣《き》が強《つよ》くなり。『俺《おれ》は用《よう》が有《あ》るのだ! 出《で》るのだ! 貴樣《きさま》に何《なん》の權利《けんり》が有《あ》る! 出《だ》せと云《い》つたら出《だ》せ!』
『解《わか》つたか馬鹿野郎《ばかやらう》!』と、イワン、デミトリチは叫《さけ》んで、拳《こぶし》を固《かた》めて戸《と》を敲《たゝ》く。『やい開《あ》けろ! 開《あ》けろ! 開《あ》けんか! 開《あ》けんなら戸《と》を打破《ぶちこは》すぞ! 人非人《ひとでなし》! 野獸《けだもの》!』
『開《あ》けろ!』アンドレイ、エヒミチは全身《ぜんしん》をぶる/\[#「ぶる/\」に傍点]と顫《ふる》はして。『俺《おれ》が命《めい》ずるのだツ!』
『もう一|度《ど》言《い》つて見《み》ろ!』戸《と》の那裏《むかふ》でニキタの聲《こゑ》。『もう一|度《ど》言《い》つて見《み》ろ!』
『ぢや、エウゲニイ、フエオドロヰチでも此處《こゝ》へ呼《よ》んで來《こ》い、些《ちよつ》と俺《おれ》が來《き》て呉《く》れツて云《い》つて居《ゐ》ると然《さ》う云《い》へ……些《ちよつ》とで可《い》いからツて!』
『明日《あした》になればお出《い》でになります。』
『何日《いつ》になつたつて我々《われ/\》を決《けつ》して出《だ》すものか。』イワン、デミトリチは云《い》ふ、『我々《われ/\》を茲《こゝ》で腐《くさ》らして了《しま》ふ料簡《れうけん》だらう! 來世《らいせい》に地獄《ぢごく》がなくて爲《な》るものか、這麼人非人共《こんなひとでなしども》が如何《どう》して許《ゆる》される、那樣事《そんなこと》で正義《せいぎ》は何處《どこ》にある、えい、開《あ》けろ、畜生《ちくしやう》!』彼《かれ》は嗄《しやが》れた聲《こゑ》を絞《しぼ》つて、戸《と》に身《み》を投掛《なげか》け。『可《い》いか、貴樣《きさま》の頭《あたま》を敲《たゝ》き破《わ》るぞ! 人殺奴《ひとごろしめ》!』
ニキタはぱツと戸《と》を開《あ》けるより、阿修羅王《あしゆらわう》の荒《あ》れたる如《ごと》く、兩手《りやうて》と膝《ひざ》でアンドレイ、エヒミチを突飛《つきとば》し、骨《ほね》も碎《くだ》けよと其鐵拳《そのてつけん》を眞向《まつかう》に、健《したゝ》か彼《かれ》の顏《かほ》を敲《たゝ》き据《す》ゑた。アンドレイ、エヒミチはアツと云《い》つたまゝ、緑色《みどりいろ》の大浪《おほなみ》が頭《あたま》から打被《うちかぶ》さつたやうに感《かん》じて、寐臺《ねだい》の上《うへ》に引《ひ》いて行《ゆ》かれたやうな心地《こゝち》。口《くち》の中《うち》には鹽氣《しほけ》を覺《おぼ》えた、大方《おほかた》齒《は》からの出血《しゆつけつ》であらう。彼《かれ》は泳《およ》がんと爲《す》るものゝやうに兩手《りやうて》を動《うご》かして、誰《たれ》やらの寐臺《ねだい》にやう/\取縋《とりすが》つた。と又《また》も此時《このとき》振下《ふりおろ》したニキタの第《だい》二の鐵拳《てつけん》、背骨《せぼね》も歪《ゆが》むかと悶《もだ》ゆる暇《ひま》もなく打續《うちつゞい》て、又々《また/\》三|度目《どめ》の鐵拳《てつけん》。
イワン、デミトリチは此時《このとき》高《たか》く叫聲《さけびごゑ》。彼《かれ》も打《ぶ》たれたのであらう。
其《そ》れよりは室内《しつない》復《また》音《おと》もなく、ひツそり[#「ひツそり」に傍点]と靜《しづま》り返《かへ》つた。折《をり》から淡々《あは/\》しい月《つき》の光《ひかり》、鐵窓《てつさう》を洩《も》れて、床《ゆか》の上《うへ》に網《あみ》に似《に》たる如《ごと》き墨畫《すみゑ》を夢《ゆめ》のやうに浮出《うきだ》したのは、謂《いは》ふやうなく、凄絶《せいぜつ》又《また》慘絶《さんぜつ》の極《きはみ》で有《あ》つた、アンドレイ、エヒミチは横《よこ》たはつた儘《まゝ》、未《ま》だ息《いき》を殺《ころ》して、身《み》を縮《ちゞ》めて、もう一|度《ど》打《ぶ》たれはせぬかと待《まち》構《かま》へてゐる。と、忽《たちま》ち覺《おぼ》ゆる胸《むね》の苦痛《くつう》、膓《ちやう》の疼痛《とうつう》、誰《たれ》か鋭《するど》き鎌《かま》を以《もつ》て、刳《ゑぐ》るにはあらぬかと思《おも》はるゝ程《ほど》、彼《かれ》は枕《まくら》に強攫《しが》み着《つ》き、きりゝ[#「きりゝ」に傍点]と齒《は》をば切《くひしば》る。今《いま》ぞ初《はじ》めて彼《かれ》は知《し》る。其有耶無耶《そのうやむや》になつた腦裏《なうり》に、猶《なほ》朧朦氣《おぼろげ》に見《み》た、月《つき》の光《ひかり》に輝《てら》し出《だ》されたる、黒《くろ》い影《かげ》のやうな此《こ》の室《へや》の人々
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