《ひと/″\》こそ、何年《なんねん》と云《い》ふ事《こと》は無《な》く、恁《かゝ》る憂目《うきめ》に遭《あ》はされつゝ有《あ》りしかと、堪《た》へ難《がた》き恐《おそろ》しさは電《いなづま》の如《ごと》く心《こゝろ》の中《うち》に閃《ひらめ》き渡《わた》つて、二十|有餘年《いうよねん》の間《あひだ》、奈何《どう》して自分《じぶん》は是《これ》を知《し》らざりしか、知《し》らんとは爲《せ》ざりしか。と空《そら》恐《おそろ》しく思《おも》ふので有《あ》つたが、又《また》剛情《がうじやう》我慢《がまん》なる其良心《そのりやうしん》は、とは云《い》へ自《みづか》らは未《いま》だ嘗《かつ》て疼痛《とうつう》の考《かんが》へにだにも知《し》らぬので有《あ》つた、然《しか》らば自分《じぶん》が惡《わる》いのでは無《な》いのであると囁《さゝや》いて、宛然《さながら》襟下《えりもと》から冷水《ひやみづ》を浴《あ》びせられたやうに感《かん》じた。彼《かれ》は起上《おきあが》つて聲限《こゑかぎ》りに叫《さけ》び、而《さう》して此《こゝ》より拔出《ぬけい》でて、ニキタを眞先《まつさき》に、ハヾトフ、會計《くわいけい》、代診《だいしん》を鏖殺《みなごろし》にして、自分《じぶん》も續《つゞ》いて自殺《じさつ》して終《しま》はうと思《おも》ふた。が、奈何《どう》したのか聲《こゑ》は咽喉《のど》から出《い》でず、足《あし》も亦《また》意《い》の如《ごと》く動《うご》かぬ、息《いき》さへ塞《つま》つて了《しま》ひさうに覺《おぼ》ゆる甲斐《かひ》なさ。彼《かれ》は苦《くる》しさに胸《むね》の邊《あたり》を掻《か》き毟《むし》り、病院服《びやうゐんふく》も、シヤツも、ぴり/\と引裂《ひきさ》くので有《あ》つたが、施《やが》て其儘《そのまゝ》氣絶《きぜつ》して寐臺《ねだい》の上《うへ》に倒《たふ》れて了《しま》つた。
(十九)
翌朝《よくてう》彼《かれ》は激《はげ》しき頭痛《づつう》を覺《おぼ》えて、兩耳《りやうみゝ》は鳴《な》り、全身《ぜんしん》には只《たゞ》ならぬ惱《なやみ》を感《かん》じた。而《さう》して昨日《きのふ》の身《み》に受《う》けた出來事《できごと》を思《おも》ひ出《だ》しても、恥《はづか》しくも何《なん》とも感《かん》ぜぬ。昨日《きのふ》の小膽《せうたん》で有《あ》つた事《こと》も、月《つき》さへも氣味《きみ》惡《わる》く見《み》た事《こと》も、以前《いぜん》には思《おも》ひもしなかつた感情《かんじやう》や、思想《しさう》を有《あり》の儘《まゝ》に吐露《とろ》したこと、即《すなは》ち哲學《てつがく》をしてゐる丁斑魚《めだか》の不滿足《ふまんぞく》の事《こと》を云《い》ふた事《こと》なども、今《いま》は彼《かれ》に取《と》つて何《なん》でもなかつた。
彼《かれ》は食《く》はず、飮《の》まず、動《うご》きもせず、横《よこ》になつて默《もく》してゐた。
『あゝもう何《なに》も彼《か》もない、誰《たれ》にも返答《へんたふ》などするものか……もう奈何《どう》でも可《い》い。』と、彼《かれ》は考《かんが》へてゐた。
中食後《ちゆうじきご》ミハイル、アウエリヤヌヰチは茶《ちや》を四|半斤《はんぎん》と、マルメラドを一|斤《きん》持參《も》つて、彼《かれ》の所《ところ》に見舞《みまひ》に來《き》た。續《つゞ》いてダリユシカも來《き》、何《なん》とも云《い》へぬ悲《かな》しそうな顏《かほ》をして、一|時間《じかん》も旦那《だんな》の寐臺《ねだい》の傍《そば》に凝《じつ》と立《たつ》た儘《まゝ》で、其《そ》れからハヾトフもブローミウム加里《カリ》の壜《びん》を持《も》つて、猶且《やはり》見舞《みまひ》に來《き》たのである。而《さう》して室内《しつない》に何《なに》か香《かう》を薫《く》ゆらすやうにとニキタに命《めい》じて立去《たちさ》つた。
其夕方《そのゆふがた》、俄然《がぜん》アンドレイ、エヒミチは腦充血《なうじゆうけつ》を起《おこ》して死去《しきよ》して了《しま》つた。初《はじ》め彼《かれ》は寒氣《さむけ》を身《み》に覺《おぼ》え、吐氣《はきけ》を催《もよほ》して、異樣《いやう》な心地惡《こゝちあ》しさが指先《ゆびさき》に迄《まで》染渡《しみわた》ると、何《なに》か胃《ゐ》から頭《あたま》に突上《つきあ》げて來《く》る、而《さう》して眼《め》や耳《みゝ》に掩《おほ》ひ被《かぶ》さるやうな氣《き》がする。青《あを》い光《ひかり》が眼《め》に閃付《ちらつ》く。彼《かれ》は今《いま》已《すで》に其身《そのみ》の死期《しき》に迫《せま》つたのを知《し》つて、イワン、デミトリチや、ミハイル、アウエリヤヌヰチや、又《また》多數《おほく》の人《ひと》の靈魂不死《れいこんふし》を信《しん》じてゐるのを思《おも》ひ出《だ》し、若《も》し那樣事《そんなこと》が有《あ》つたらばと考《かんが》へたが、靈魂《れいこん》の不死《ふし》は、何《なに》やら彼《かれ》には望《のぞ》ましくなかつた。而《さう》して其考《そのかんが》へは唯《たゞ》一|瞬間《しゆんかん》にして消《き》えた。昨日《きのふ》讀《よ》んだ書中《しよちゆう》の美《うつく》しい鹿《しか》の群《むれ》が、自分《じぶん》の側《そば》を通《とほ》つて行《い》つたやうに彼《かれ》には見《み》えた。此度《こんど》は農婦《ひやくしやうをんな》が手《て》に書留《かきとめ》の郵便《いうびん》を持《も》つて、其《そ》れを自分《じぶん》に突出《つきだ》した。何《なに》かミハイル、アウエリヤヌヰチが云《い》ふたので有《あ》るが、直《すぐ》に皆《みな》掻消《かきき》えて了《しま》つた。恁《か》くてアンドレイ、エヒミチは永刧《えいごふ》覺《さ》めぬ眠《ねむり》には就《つ》いた。
下男共《げなんども》は來《き》て、彼《かれ》の手足《てあし》を捉《と》り、小聖堂《こせいだう》に運《はこ》び去《さ》つたが、彼《かれ》が眼《め》未《いま》だ瞑《めい》せずして、死骸《むくろ》は臺《だい》の上《うへ》に横臥《よこたは》つてゐる。夜《よ》に入《い》つて月《つき》は影暗《かげくら》く彼《かれ》を輝《てら》した。翌朝《よくてう》セルゲイ、セルゲヰチは此《こゝ》に來《き》て、熱心《ねつしん》に十|字架《じか》に向《むか》つて祈祷《きたう》を捧《さゝ》げ、自分等《じぶんら》が前《さき》の院長《ゐんちやう》たりし人《ひと》の眼《め》を合《あ》はしたので有《あ》つた。
一|日《にち》を經《へ》て、アンドレイ、エヒミチは埋葬《まいさう》された。其《そ》の祈祷式《きたうしき》に預《あづか》つたのは、唯《たゞ》ミハイル、アウエリヤヌヰチと、ダリユシカとで。
底本:「明治文學全集 82 明治女流文學集(二)」筑摩書房
1965(昭和40)年12月10日発行
1989(平成元)年2月20日初版第5刷
底本の親本:「露國文豪 チエホフ傑作集」獅子吼書房
1908(明治41)年10月
初出:「文藝界」
1906(明治39)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※「匆」と「※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]」の混在、仮名表記と繰り返し記号の使い方の揺れは、底本通りです。
入力:阿部哲也
校正:岩渕祐子
2006年9月11日作成
2009年7月13日修正
青空文庫作成ファイル:
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