六號室
アントン・チエホフ Anton Chekhov
瀬沼夏葉訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)町立病院《ちやうりつびやうゐん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|棟《むね》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+旬」、第3水準1−88−80]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)のび/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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       (一)

 町立病院《ちやうりつびやうゐん》の庭《には》の内《うち》、牛蒡《ごばう》、蕁草《いらぐさ》、野麻《のあさ》などの簇《むらが》り茂《しげ》つてる邊《あたり》に、小《さゝ》やかなる別室《べつしつ》の一|棟《むね》がある。屋根《やね》のブリキ板《いた》は錆《さ》びて、烟突《えんとつ》は半《なかば》破《こは》れ、玄關《げんくわん》の階段《かいだん》は紛堊《しつくひ》が剥《は》がれて、朽《く》ちて、雜草《ざつさう》さへのび/\と。正面《しやうめん》は本院《ほんゐん》に向《むか》ひ、後方《こうはう》は茫廣《ひろ/″\》とした野良《のら》に臨《のぞ》んで、釘《くぎ》を立《た》てた鼠色《ねずみいろ》の塀《へい》が取繞《とりまは》されてゐる。此《こ》の尖端《せんたん》を上《うへ》に向《む》けてゐる釘《くぎ》と、塀《へい》、さては又《また》此《こ》の別室《べつしつ》、こは露西亞《ロシア》に於《おい》て、たゞ病院《びやうゐん》と、監獄《かんごく》とにのみ見《み》る、儚《はかな》き、哀《あはれ》な、寂《さび》しい建物《たてもの》。
 蕁草《いらぐさ》に掩《おほ》はれたる細道《ほそみち》を行《ゆ》けば直《す》ぐ別室《べつしつ》の入口《いりぐち》の戸《と》で、戸《と》を開《ひら》けば玄關《げんくわん》である。壁際《かべぎは》や、暖爐《だんろ》の周邊《まはり》には病院《びやうゐん》のさま/″\の雜具《がらくた》、古寐臺《ふるねだい》、汚《よご》れた病院服《びやうゐんふく》、ぼろ/\の股引下《ヅボンした》、青《あを》い縞《しま》の洗浚《あらひざら》しのシヤツ、破《やぶ》れた古靴《ふるぐつ》と云《い》つたやうな物《もの》が、ごたくさ[#「ごたくさ」に傍点]と、山《やま》のやうに積《つ》み重《かさ》ねられて、惡臭《あくしう》を放《はな》つてゐる。
 此《こ》の積上《つみあ》げられたる雜具《がらくた》の上《うへ》に、毎《いつ》でも烟管《きせる》を噛《くは》へて寐辷《ねそべ》つてゐるのは、年《とし》を取《と》つた兵隊上《へいたいあが》りの、色《いろ》の褪《さ》めた徽章《きしやう》の附《つ》いてる軍服《ぐんぷく》を始終《ふだん》着《き》てゐるニキタと云《い》ふ小使《こづかひ》。眼《め》に掩《おほ》ひ被《かぶ》さつてる眉《まゆ》は山羊《やぎ》のやうで、赤《あか》い鼻《はな》の佛頂面《ぶつちやうづら》、脊《せ》は高《たか》くはないが瘠《や》せて節塊立《ふしくれだ》つて、何處《どこ》にか恁《か》う一|癖《くせ》ありさうな男《をとこ》。彼《かれ》は極《きは》めて頑《かたくな》で、何《なに》よりも秩序《ちつじよ》と云《い》ふことを大切《たいせつ》に思《おも》つてゐて、自分《じぶん》の職務《しよくむ》を遣《や》り終《おほ》せるには、何《なん》でも其鐵拳《そのてつけん》を以《もつ》て、相手《あいて》の顏《かほ》だらうが、頭《あたま》だらうが、胸《むね》だらうが、手當放題《てあたりはうだい》に毆打《なぐ》らなければならぬものと信《しん》じてゐる、所謂《いはゆる》思慮《しりよ》の廻《ま》はらぬ人間《にんげん》。
 玄關《げんくわん》の先《さき》は此《こ》の別室全體《べつしつぜんたい》を占《し》めてゐる廣《ひろ》い間《ま》、是《これ》が六|號室《がうしつ》である。淺黄色《あさぎいろ》のペンキ塗《ぬり》の壁《かべ》は汚《よご》れて、天井《てんじやう》は燻《くすぶ》つてゐる。冬《ふゆ》に暖爐《だんろ》が烟《けぶ》つて炭氣《たんき》に罩《こ》められたものと見《み》える。窓《まど》は内側《うちがは》から見惡《みにく》く鐵格子《てつがうし》を嵌《は》められ、床《ゆか》は白《しろ》ちやけて、そゝくれ立《だ》つてゐる。漬《つ》けた玉菜《たまな》や、ランプの燻《いぶり》や、南京蟲《なんきんむし》や、アンモニヤの臭《にほひ》が混《こん》じて、入《はひ》つた初《はじ》めの一|分時《ぷんじ》は、動物園《どうぶつゑん》にでも行《い》つたかのやうな感覺《かんかく》を惹起《ひきおこ》すので。
 室内《しつない》には螺旋《ねぢ》で床《ゆか》に止《と》められた寐臺《ねだい》が數脚《すうきやく》。其上《そのうへ》には青《あを》い病院服《びやうゐんふく》を着《き》て、昔風《むかしふう》に頭巾《づきん》を被《かぶ》つてゐる患者等《くわんじやら》が坐《すわ》つたり、寐《ね》たりして、是《これ》は皆《みんな》瘋癲患者《ふうてんくわんじや》なのである。患者《くわんじや》の數《すう》は五|人《にん》、其中《そのうち》にて一人丈《ひとりだけ》は身分《みぶん》のある者《もの》であるが他《た》は皆《みな》卑《いや》しい身分《みぶん》の者計《ものばか》り。戸口《とぐち》から第《だい》一の者《もの》は、瘠《や》せて脊《せ》の高《たか》い、栗色《くりいろ》に光《ひか》る鬚《ひげ》の、眼《め》を始終《しゞゆう》泣腫《なきは》らしてゐる發狂《はつきやう》の中風患者《ちゆうぶくわんじや》、頭《あたま》を支《さゝ》へて凝《ぢつ》と坐《すわ》つて、一つ所《ところ》を瞶《みつ》めながら、晝夜《ちうや》も別《わ》かず泣《な》き悲《かなし》んで、頭《あたま》を振《ふ》り太息《といき》を洩《もら》し、時《とき》には苦笑《にがわらひ》をしたりして。周邊《あたり》の話《はなし》には稀《まれ》に立入《たちい》るのみで、質問《しつもん》をされたら决《けつ》して返答《へんたふ》を爲《し》たことの無《な》い、食《く》ふ物《もの》も、飮《の》む物《もの》も、與《あた》へらるゝまゝに、時々《とき/″\》苦《くる》しさうな咳《せき》をする。其頬《そのほゝ》の紅色《べにいろ》や、瘠方《やせかた》で察《さつ》するに彼《かれ》にはもう肺病《はいびやう》の初期《しよき》が萠《き》ざしてゐるのであらう。
 其《それ》に續《つゞ》いては小體《こがら》な、元氣《げんき》な、頤鬚《あごひげ》の尖《とが》つた、髮《かみ》の黒《くろ》いネグル人《じん》のやうに縮《ちゞ》れた、些《すこ》しも落着《おちつ》かぬ老人《らうじん》。彼《かれ》は晝《ひる》には室内《しつない》を窓《まど》から窓《まど》に往來《わうらい》し、或《あるひ》はトルコ風《ふう》に寐臺《ねだい》に趺《あぐら》を坐《か》いて、山雀《やまがら》のやうに止《と》め度《ど》もなく囀《さへづ》り、小聲《こゞゑ》で歌《うた》ひ、ヒヽヽと頓興《とんきよう》に笑《わら》ひ出《だ》したり爲《し》てゐるが、夜《よる》に祈祷《きたう》をする時《とき》でも、猶且《やはり》元氣《げんき》で、子供《こども》のやうに愉快《ゆくわい》さうにぴん/\してゐる。拳《こぶし》で胸《むね》を打《う》つて祈《いの》るかと思《おも》へば、直《すぐ》に指《ゆび》で戸《と》の穴《あな》を穿《ほ》つたりしてゐる。是《これ》は猶太人《ジウ》のモイセイカと云《い》ふ者《もの》で、二十|年計《ねんばか》り前《まへ》、自分《じぶん》が所有《しよいう》の帽子製造場《ばうしせいざうば》が燒《や》けた時《とき》に、發狂《はつきやう》したのであつた。
 六|號室《がうしつ》の中《うち》で此《こ》のモイセイカ計《ばか》りは、庭《には》にでも町《まち》にでも自由《じいう》に外出《でる》のを許《ゆる》されてゐた。其《そ》れは彼《かれ》が古《ふる》くから病院《びやうゐん》にゐる爲《ため》か、町《まち》で子供等《こどもら》や、犬《いぬ》に圍《かこ》まれてゐても、决《けつ》して他《た》に何等《なんら》の害《がい》をも加《くは》へぬと云《い》ふ事《こと》を町《まち》の人《ひと》に知《し》られてゐる爲《ため》か、左《と》に右《かく》、彼《かれ》は町《まち》の名物男《めいぶつをとこ》として、一人《ひとり》此《こ》の特權《とくけん》を得《え》てゐたのである。彼《かれ》は町《まち》を廻《まは》るに病院服《びやうゐんふく》の儘《まゝ》、妙《めう》な頭巾《づきん》を被《かぶ》り、上靴《うはぐつ》を穿《は》いてる時《とき》もあり、或《あるひ》は跣足《はだし》でヅボン下《した》も穿《は》かずに歩《ある》いてゐる時《とき》もある。而《さう》して人《ひと》の門《かど》や、店前《みせさき》に立《た》つては一|錢《せん》づつを請《こ》ふ。或《ある》家《いへ》ではクワスを飮《の》ませ、或《ある》所《ところ》ではパンを食《く》はして呉《く》れる。で、彼《かれ》は毎《いつ》も滿腹《まんぷく》で、金持《かねもち》になつて、六|號室《がうしつ》に歸《かへ》つて來《く》る。が、其《そ》の携《たづさ》へ歸《かへ》る所《ところ》の物《もの》は、玄關《げんくわん》でニキタに皆《みんな》奪《うば》はれて了《しま》ふ。兵隊上《へいたいあが》りの小使《こづかひ》のニキタは亂暴《らんばう》にも、隱《かくし》を一々《いち/\》轉覆《ひつくりか》へして、悉皆《すつかり》取返《とりか》へして了《しま》ふので有《あ》つた。
 又《また》モイセイカは同室《どうしつ》の者《もの》にも至《いた》つて親切《しんせつ》で、水《みづ》を持《も》つて來《き》て遣《や》り、寐《ね》る時《とき》には布團《ふとん》を掛《か》けて遣《や》りして、町《まち》から一|錢《せん》づつ貰《もら》つて來《き》て遣《や》るとか、各《めい/\》に新《あたら》しい帽子《ばうし》を縫《ぬ》つて遣《や》るとかと云《い》ふ。左《ひだり》の方《はう》の中風患者《ちゆうぶくわんじや》には始終《しゞゆう》匙《さじ》でもつて食事《しよくじ》をさせる。彼《かれ》が恁《か》くするのは、別段《べつだん》同情《どうじやう》からでもなく、と云《い》つて、或《あ》る情誼《じやうぎ》からするのでもなく、唯《たゞ》右《みぎ》の隣《となり》にゐるグロモフと云《い》ふ人《ひと》に習《なら》つて、自然《しぜん》其眞似《そのまね》をするので有《あ》つた。
 イワン、デミトリチ、グロモフは三十三|歳《さい》で、彼《かれ》は此室《このしつ》での身分《みぶん》の可《い》いもの、元來《もと》は裁判所《さいばんしよ》の警吏《けいり》、又《また》縣廳《けんちやう》の書記《しよき》をも務《つと》めたので。彼《かれ》は人《ひと》が自分《じぶん》を窘逐《きんちく》すると云《い》ふ事《こと》を苦《く》にしてゐる瘋癲患者《ふうてんくわんじや》、常《つね》に寐臺《ねだい》の上《うへ》に丸《まる》くなつて寐《ね》てゐたり、或《あるひ》は運動《うんどう》の爲《ため》かのやうに、室《へや》を隅《すみ》から隅《すみ》へと歩《ある》いて見《み》たり、坐《すわ》つてゐる事《こと》は殆《ほとん》ど稀《まれ》で、始終《しゞゆう》興奮《こうふん》して、燥氣《いら/\》して、曖昧《あいまい》なある待《ま》つことで氣《き》が張《は》つてゐる樣子《やうす》。玄關《げんくわん》の方《はう》で微《かすか》な音《おと》でもするか、庭《には》で聲《こゑ》でも聞《き》こえるかすると、直《す》ぐに頭《あたま》を持上《もちあ》げて耳《みゝ》を欹《そばだ》てる。誰《だれ》か自分《じぶん》の所《ところ》に來《き》たのでは無《な》いか、自分《じぶん》を尋《たづ》ねてゐるのでは無《な》いかと思《おも》つて、顏《かほ》には謂《い》ふべからざる不安《ふあん》の色《いろ》が顯《あら》はれる。さなきだに彼《かれ》の憔悴《せうすゐ》した顏《か
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